tedukurikotoba (2563)

蛙の面に水

【漢字】蛙の面に水 【読み】かえるのつらにみず 【意味】カエルに水をかけても全然平気なように、どんな事を言われても平然としている様子。さっぱり効き目がない。 【例文1】いくら言っても彼は蛙の面に水だから無駄だよ。 【例文2】彼は無神経すぎて何言っても蛙の面に水だ。 【例文3】周囲の事も考えず蛙の面に水。 蛙の面に水とは蛙に水をかけても何ともない様子からどんなことをしても平然としている態度を言います。 わたしの周りにも蛙の面に水の態度の者がいます。 社会人なんだからひげや髪をきれいに整えなさい、お客様の前では笑顔を絶やさない、笑顔で接すると基本なのにいまどきの子はまったく基本からできていない。よくそれで採用されたなとあきれます。むしろ素性を見抜けなかった担当者が悪いのか就職試験を受けた時の彼がいちまい上手だったのか。 私が入社したても頃は先輩・上司の教えは絶対でいくらプライベートの誘いだったとしても断ることは絶対になかったです。行きたくないとしても仕方のないことだからポジティブに考えて何か得る物があるかもしてない、気に入ってもらえるかもしてない、おごってもらえるのであればと出向いたものでした。 まあプライベートの誘いは100歩譲ってわかるとしても、慰労会や忘年会を参加しないとはどうゆう事ですかね。理由はお酒を飲めないから、他に用事があるから、金欠だからと平気で答えます。これも時代の流れなんでしょうかね。 幼稚園のお見送りに行ってきました。帰りに同じクラスのママさんに会って、少し立ち話。昨日、そのママさんの子供とその友達が家の近くの月極めの駐車場で遊んでいたところ、そこに車が戻ってきて、その車に乗っていたおばさんからものすごい剣幕で文句を言われて大変だった、ということでした。ママさんが何か言おうとしても、蛙の面に水でなんの効果もなし。ちょうど幼稚園帰りだったので、子供達は名札もつけていたので、そのおばさんから幼稚園に苦情を言うというとこまで言われたみたいでした。 そのおばさんの主張していることも分からないでもないけれども、そこまでの剣幕で怒る必要があったのかどうか、というのは疑問に残ってしまいました。車だから、確かに危ない場所ではあるので、遊ばせない方がいいのかもしれないけれど。園から帰っての話だから、わざわざ幼稚園まで話をもっていく必要もないとは思うけれど。世の中にはいろんな人がいるから、本当にそこらへんは気を付けないといけないのかもしれません。 うちも幼稚園帰りに買い物には寄らないように言われているのに、よく寄って帰ってしまっているので、そこはもっと幼稚園の意向に添うようにしなくてはいけないなと思いました。

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襟を正す

【漢字】襟を正す 【読み】えりをただす 【意味】衣服の襟を整えて気を引き締める。 【例文1】明日は入社式だ。気合いが入るよう襟を正す。 【例文2】面接試験で襟を正す。 【例文3】結婚のご挨拶に襟を正す。 「襟を正す」の語源・由来は昔長安の有名な易者に会いに行った役人たちが易者の易にとどまらない深い博識に感動して自然に冠の紐を締め直し上着の襟を正しきちんと座り直して話を聞き続けたという故事に基づくものです。このことから今までを反省し改めて身を引き締めて事に当たる事を表すようになりました。「自分の乱れた衣服や姿勢を整えること」の外見的な意味と「それまでの態度を改めて気持ちを引き締めること」やの内面的な意味があります。 また「真面目な気持ちで物事に対処する」という態度を示しています。会社などで上司に「皆、襟を正して聞くように!」と言われて思わずスーツや作業服の襟に手をやり整えていると「君は何をやっているんだ?」と笑われてしまいそうです。これは「皆、気持ちを引き締めて聞くように!」という意味で言っていて服装を正して聞きなさいという意味で言っているわけではないからです。そもそも会社では皆きちんとした身なりをしているでしょうし自堕落な格好をている人はいないと思います。しかし「襟を正す」には服装を整えるという意味と気持ちを引き締めるどちらの意味もあるし服装を整えることで気持ちも引き締まるのであながち間違っているとも言えません。 「襟を正す」とは「姿勢や服装の乱れを整え、きちんとすること。心をひきしめ真面目な態度になること」です。この言葉は洋装が外国から入ってきてからの言葉です。江戸時代には和装でしたから、襟口のことは衣紋と言いました。職人さん以外では着物は襟をきちんとして着るのがマナーでしたが、家では衣紋を抜く、つまり襟元をゆったりと広げて着る、いわゆる暑さ対策です。また、そのように着ていることが粋でした。しかし、お客さんが見えたり、買い物になどで表に出る時には襟を正して礼儀正しくします。それを「衣紋を繕う」と言いました。ですから、今でもある程度の年配者はハンガーのことを衣紋掛けと呼びますよね。現代でも和服を着た時やお祭りの半纏を着た時など、どれくらい衣紋を抜くかが、考えどころです。あまり抜いてはだらしがないし、衣紋を抜かずにぴちっと着すぎても、ぜに首みたいでおかしい。どの程度抜くのが粋か。また、年によっても変わります。若い人があまり抜いていては遊び人か、好き者かと見られますし、本当に迷います。そんな時には年上の方にご意見を伺うのが常套手段。衣紋の話ではありますが、襟を正して拝聴します。絶妙なご意見が出てきます。さすが年の功です。「年配者が一人亡くなることは図書館をひとつ失うのと同じ」という言葉がある国がありますが、皆さんも「襟を正し」て年配者の意見を傾聴してみませんか。貴重な収穫があるに違いありません。

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烏合の衆

【漢字】烏合の衆 【読み】うごうのしゅう 【意味】決まり事がなく、まとまりのない集団。 【例文1】烏合の衆だから、意見がバラバラでなかなか決まらない。 【例文2】烏合の衆のチームをまとめるのは大変だ。 【例文3】烏合の衆で敗北する。 烏合の衆とは、見下された表現として使われます。 中国後漢書の出典によるもので、役立たずの群衆や軍隊を総じて言います。 烏合とは、カラスの集団のことで、たくさん集まってもただうるさいだけで、まとまりもなく、何の知恵もないということです。 戦場でどんなに数で勝っていても、軍隊が烏合の衆であれば、恐るるに足らずと判断されるのです。 どんなにたくさんの人数が集まっていても、それぞれに知恵がなく、規律が守れない人間ばかりであれば、何の役にも立たないのです。 逆に、人数は少ないけれども、各自がしっかりと目的意識を持って統率の取れた行動をすれば、戦いには勝てるのです。 数に頼ろうとすると、意識の低い人ばかりが寄り合ってしまい結局、事を為すことは出来ません。 人間が集団で行動する時には、一人一人が自立しつつ、同じ意思を持ち、規律を守ることが大事なのです。 烏合の衆を率いるリーダーが、どんなに名将であっても、勝利することは困難でしょう。

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息がかかる

【漢字】息がかかる 【読み】いきがかかる 【意味】権力者の影響を強く受ける。 【例文1】社長の息がかかっているので、出世コース間違いない。 【例文2】芸能人が開くお店は息がかかって繁盛する。 【例文3】2世タレントの息がかかる。 息がかかるという言葉の意味は、有力者の支援や支配を受けることを言います。 企業においても派閥などで有力者の支援を受けて、重要な役職につかれる方もいらっしゃいます。 能力はどうであれ、大きな有力者の大きな声があれば、その支配を受けた人たちは会社の支配を握っていくことになるのです。 一方、国会議員も同じです。 選挙においても有力者の支援を受けていれば、当然のように知名度も上がります。 何と言っても親子2世代であれば、なおさらではないでしょうか。 最近では、東京都議選が控えていますが、有力な政党へ移籍する都議会議員が増えていると聞きます。 結局、バックにいる有力な政党の有力者の支援を受けていれば、当選する確率が増えるという考え方が裏にはあると思います。 政治をしていく上でのビジョンなど全くない人たちの考え方ですが、このような移籍した議員が当選するとなると、有権者の考え方が非常に疑われます。 ただ最近の国会議員の選挙や、東京都のような中央政府に近い議会における、腐敗した選挙には大変憤りを感じます。 もっと息がかかっていない、純粋に社会を良くしたいという人が政治を進めていくことがいかに重要であるか、改めて最近感じるところです。

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会うは別れの始め

【漢字】会うは別れの始め 【読み】あうはわかれのはじめ 【意味】出会いがあれば必ず別れる時がある。 【例文1】転勤族なので、会うは別れの始めが多い。 【例文2】会うは別れの始めの出会いを大切にする。 【例文3】会うは別れの始めだけど、SNSでどこにいても連絡が取り合える。 「会うは別れの始め」は仏教の経典に書かれている「会者定離(えしゃじょうり)」から生まれた言葉で永遠に変わらず続く世界はなく変化は必ず訪れるという人生の無常観を表した言葉です。無常観とは世界がひとときも止まることなく常に変化しているということ、「会者定離」とは会う者は離れる定めにあるという意味です。仲の良かった友人とふとした行き違いから疎遠になったり、大好きだった恋人と心変わりから別れてしまったり、おしどり夫婦と言われるほど仲の良い夫婦にも出来心からの不貞などで離婚してしまうこともあるものです。行き違いからの別れは防ぐことができるかもしれませんし、またどこかで再会し関係を築ける日が来るかもしれませんが、誰にでも訪れる死からは誰も逃れることはできません。病気である程度覚悟して迎えられる死もあればある日突然訪れる死もあります。覚悟していても突然に訪れても永遠に別れることは辛く悲しいものです。今日笑いあって楽しく過ごしている相手と明日も同じように過ごせるとは限らないのです。出会った瞬間から別れへのカウントダウンは始まっているのです。だからこそ会っている時間の一瞬一瞬を大切に相手を思いやって過ごす事を忘れてはならないのです。 私は学校の卒業式などの場でも泣くことのない子どもでした。 そもそも卒業式であまり悲しいと思ったこともなく、なぜ周りの人間が泣いているのか分かりませんでした。 今にして思えば友達との別れに対して鈍感な人間だったのだと思います。 私は幼い頃からたびたび引っ越しをしており、そのたびに友達との別れを経験してきました。 幼い頃は別れというものがどういうものなのかがあまり理解できず、また理解できたとしてもその別れは当時の自分にはどうすることもできないものであるため、なりゆきに身を任せるほかに手段がありませんでした。 友達との別れの経験が人よりも多かったため、いつからか人と初めて会った段階から「会うは別れの始め」といった感覚が自然と身に付くようになったのかもしれません。 両親から引っ越しを告げられ、ずっと一緒にいられると思っていた友達と別れなければならない経験をくり返すと、別れが当たり前のように思えてくるため「別れ」という ものが気にならなくなります。 別れは感覚的にドラマチックなもののように思えるので、みな「別れ」に焦点を当てがちですが、その後に待っている「出会い」に焦点を当てて考えることで前途が開けてくるような気がしています。

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