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手作り言葉辞典について

手作り言葉辞典では、ユーザーが疑問に思って検索してきそうな言葉の を載せています。 検索して調べてきそうな言葉とは、ここでは「ことわざ」「慣用句」「四字熟語」「故事成語」の4つになります。 それぞれの意味は下記の通りです。 古くから言い伝えられてきた、教訓または風刺の意味を含んだ短い言葉。生活体験から きた社会常識を示すものが多い。 二語以上の単語が結合して、それ全体である特定の意味を表すもの。 漢字4字で構成される熟語。 故事をもとにしてできた言葉。特に、中国の故事からできた語。

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遠水近火を救わず

【漢字】遠水近火を救わず 【読み】えんすいはきんかをすくわず 【意味】 【例文】 「遠水近火を救わず」という言葉は、遠くの水では近くの火事の火を消すことができない、ということから、遠くの親類は近くの他人に及ばない、という意味で用いられます。一人暮らしで感じた「遠水近火を救わず」の重み "「遠水近火を救わず」という言葉は、遠くの水では近くの火事の火を消すことができない、ということから、遠くの親類は近くの他人に及ばない、という意味で用いられます。類義語として、「遠くの親戚より近くの他人」という言葉が有名ですよね。 私には以前、これを痛感した出来事がありました。私の住んでいる地域は豪雪地帯で、毎年除雪作業に大忙しです。しかし、一人暮らしを始めた時は、その作業に苦戦してばかりでした。今までは家族が雪かきをほとんど行ってくれたため、そこまで負担は感じなかったのですが、その終わりのないような除雪作業は慣れない私にとって、とても厳しいものだったのです。 そうした時に救いの手を差しのべてくれたのが、近くに住むおじいさんでした。雪かきに苦戦する私を見るに見かねて、自分の家そっちのけで私の除雪作業を手伝ってくれたのです。さらにはタイヤが雪で埋まってしまった時も、脱出するために後ろから押してくれて、感謝の気持ちでいっぱいでした。 改めて地域の輪を重んじることの大切さを思う瞬間でもありました。まさに「遠水近火を救わず」という言葉を体で感じました。 その後もそのおじいさんには事あるごとに助けられています。

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遠慮会釈もない

【漢字】遠慮会釈もない 【読み】えんりょえしゃくもない 【意味】相手の事も考えず、強引に進めること。 【例文1】彼の遠慮会釈もない態度に愛想尽かす。 【例文2】遠慮会釈もない者とは取引きはしない。 【例文3】遠慮会釈もない客。 親族でレストランへに食事会に行った時のことです。私たち家族、主人の親夫婦、主人の姉家族と10人以上の大所帯となりましたが、伺う時間を連絡し予約を取っていたため、混雑する時間帯にも関わらず並ぶことなく席に着くことができました。人も大勢いる中で一目も気にせず大声で喧嘩する舅と姑。別に耳が悪いわけではないのにメニューを決めるのにも一悶着。姉家族の子ども達も店内を走り回り、親も注意をするわけでもなく好き放題にさせています。 そして空気のように振る舞う主人。注文しても届くのが遅いやら、届いた商品がぬるい、味が濃くて口に合わないなど毎度のことながら傍若無人な振る舞いに辟易です。その字の如く、本当に傍に誰も居なければ良かったのですが、お昼時で満席になっていたため申し訳なさ過ぎてそのお店はもう利用できません。傍若無人の反対の意味になる遠慮会釈という言葉があり、遠慮会釈もなくとなると傍若無人と同意語になるわけですね。遠慮会釈とだけ聞くと日本人としてとても落ち着く字面です。主人の親や姉に私が何かを言うと経験上罵詈雑言が飛んでくるのはわかっているのでこちらとしては反面教師とし慎ましく控えめに他人を思いやる心を忘れずにいたいものです。 「遠慮会釈もない」という慣用句がありますが、ときどきこの慣用句を間違った読みで覚えてしまっている人がいるようです。この慣用句は、「えんりょえしゃくもない」と読みます。 ちなみに「遠慮会釈もない」とは、「相手に対して遠慮をしたり、会釈(あいさつの意味を込めてお辞儀をするという意味の言葉で、えしゃくと読みます)をすることもなく、強引にものごとを進めていく様子のことを指している言葉です。 実は、わたし、以前はこの言葉の読みを間違っていました。「かいしゃく」という言葉については、切腹をする人の横に立って、長く傷みで苦しまなくてよいようにしっかりと切ってあげる「介錯(かいしゃく)」だと勘違いをしていたのです。しかも、そのためにわたしは「遠慮会釈もない」の意味も間違ったまま理解していて、「切腹をするときに隣にいてもらうぐらい仲のいい二人で、もちろん遠慮をする必要もないような、親しい間がら」のことを指しているのだとばかり思っていました。幸か不幸か、日常会話でわざわざ「遠慮会釈もない」という慣用句をとっさに使うこともなかったので、気づいたとき一人で恥ずかしくなっただけで済みました。 遠慮会釈もないとは、相手に対する思いやりがなく、自分の思い通りに物事を勧めることをいいます。一言で言えば、ワンマンという事でしょうか。 このようなリーダーは確かに成功はするでしょうが、長続きはしないはずです。がむしゃらに頂点を目指しているときには、ぐいぐい引っ張って行く人は必要でしょう。しかし、ある程度の場所まで来たときも、同じように自分の思い通りに運ぼうとしても、誰も付いてはきません。もう、誰もが考えて行動ができるようになっているからです。 時代劇を見ていると、何でも自分の言うとおりにしないと気が済まない殿様が出て来ます。しかし、いつか謀反が起き、失脚してしまいます。もちろん、物語の中のことですから、勧善懲悪なのでしょうが、実社会においても同じです。 現代では、このようなリーダーはまず通用しません。一時代前なら、通用したかもしれませんが、誰もが多くの情報を入手でき、考え意見を述べられるのですから、心ない人は排除されていくしかありません。 半世紀前の親も子どもに対して、遠慮会釈が無かったものですが、そのように育てられた人たちは、自分の子どもにそのような仕打ちはしないようになりました。押しつける事は例え親であっても間違っているのですから。

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縁もゆかりもない

【漢字】縁もゆかりもない 【読み】えんもゆかりもない 【意味】何の関わりもないこと。 【例文1】縁もゆかりもない所に引っ越す。 【例文2】縁もゆかりもない土地で巡り合う。 【例文3】縁もゆかりもない所に転勤になる。 縁もゆかりもないの言葉の意味ですが、他の人や場所等と過去に関係や関連を持った事が全く無い事を意味しております。「縁」は物事の生まれたきっかけを意味する言葉で有ったり、それらの結果や現状との関係性や、繋がりを意味する言葉です。「ゆかり」は所縁とも言い、縁と同じ様な意味合いを持つ言葉となります。その為「縁もゆかりもない」は、似たような意味の言葉(縁とゆかり)を重ねて使う事で、言葉の意味を強め、縁とゆかり(過去からの関連性)を強く否定する言葉となります。 具体的な言葉の使い方ですが、「私はあの方とは縁もゆかりもないのに何故か以前にお会いした様な気がする」や「この地は私にとっては縁もゆかりもない土地だが、このままこの地に根を下ろし生活して行く」等、今までの人生の中で、全く関係性を持たない人や場所等に対して使われております。類似の意味合いの言葉としては、あかの他人、他人の、縁のない等があり、言葉の使われ方としては同じ様な使われ方になります。又、「縁もゆかりもないお二人が偶然出会い結ばれる」等、おめでたい結婚の席でも使われたりますが、この場合は言葉の持つ強い否定をひっくり返す程、出会った二人が強く結ばれると言う意味で強い言葉になります。 縁もゆかりもないという言葉は何も関連性が無いという言葉で、場所や間柄で表されることがあります。例文として、マイはこの土地に初めて来たので縁もゆかりもない。僕たちは良く似ているけど残念ながら他人で縁もゆかりもない。のように使うことが出来ます。まっさらな状態、他人などの言葉をオブラートに包んだような意味を持ちます。縁もゆかりもないという言葉は日本らしい綺麗な響きと一目で美しい羅列と受け取りやすいです。縁もゆかりもないは何もない状態ですが、時が経つにつれ関わりを深めれば、その意味合いから脱出することも可能です。縁もゆかりもないという言葉はどちらかというと後ろ向きな言葉として使われがちですが、見方を変えると自由ということがわかります。なので縁もゆかりもない土地で一から住み始めるなんていう言葉はまだ見ぬ体験をさせてくれるという意味合いにとれるのでワクワク感があります。この世にたくさんの人口がいますがほとんどの人たちは自分にとって縁もゆかりもないので、縁もゆかりもないということは、身近な言葉であることもわかります。縁は出会い、ゆかりは繋がりを表します。初対面の人、血の繋がらない人、他国の人などに使う言葉です。

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縁は異なもの味なもの

【漢字】縁は異なもの味なもの 【読み】えんはいなものあじなもの 【意味】男女の巡り合わせの縁はどこで結ばれるか不思議で予測がつかないもの。 【例文1】縁は異なもの味なものを期待して旅に出る。 【例文2】一人旅に出て素敵な女性と巡り会った。縁は異なもの味なもので人生何が起こるかわからない。 【例文3】縁は異なもの味なもので旅先で巡り合った女性と交際に発展する。 男女の縁はどこでどう結ばれるかわからない非常に不思議でおもしろいものだという意味の「縁は異なもの味なもの」は思いもよらない二人が結ばれるときによく使われます。「縁」とは人の力の及ばないところで人と人を結びつける力で理屈では説明のできないものです。単に「縁は異なもの」と使われることも多く「江戸いろはかるた」にも「縁は異なもの」と使われています。本来は男女間の結びつきに使われるもので同性間で使うのは誤りですが、最近は同性間の結びつきにも使われるようになっています。「異」には妙なものという意味があり「味」には物事の趣きや面白味という意味があります。「縁は異なもの味なもの」は縁とは妙なもので面白味のあるものだということなのです。人と人との出会いは面白いもので普通に考えたら出会うはずのない人と出会い恋に落ちてしまうこともあります。またまったく恋愛対象でなかった相手に数年後再会し恋愛に発展することもあります。平凡に暮らしていると学校や会社などで会う人はいつも同じ出会いなんてないと思うことが多いと思いますが、今日なのか明日なのかそれとも1年後なのかはわかりませんが、会うべき縁のある人とは必ずどこかで出会うはずです。 「縁は異なもの味なもの」ということわざがあります。読み方として「えんはいなものあじなもの」と読みます。あまり聞き慣れないことわざですよね。このことわざの意味は男女の結びつきの関係は不思議なもので、常識では考えられなく、どう結ばれるかわからず面白いものであるという意味があります。まさに男女の恋愛関係は不思議なもので、どこでどのように運命の人と恋に落ちるか分からないものですよね。よく芸能人の結婚のニュースで「何であの俳優とあのアイドルが結婚するの?どこで知り合ったんだろう?」ということがありますよね。まさに「縁は異なもの味なもの」ですよね。このことわざは男女の恋愛関係の時に用いられるのが本来の使われ方ですが、異性関係以外にも使われることもあるそうです。「縁は異なもの味なもの」の同義語として「縁は異なもの」(えんはことなもの)があります。類義語として「合縁奇縁」(あいえんきえん)や「出雲の神の縁結び」(いずものかみのえんむすび)などがあります。「縁は異なもの味なもの」はあまり聞き慣れないことわざですが、まさに異性関係の縁を表した言葉ですよね。もしかしたら皆さん、運命の人、最高のパートナーは案外身近にいるかもしれませんよ。

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縁の下の力持ち

【漢字】縁の下の力持ち 【読み】えんのしたのちからもち 【意味】縁側を下から支える柱は大事な役目をしていることから、人目につかず、誰かの役に立っている。裏方で努力をしている。 【例文1】部活動のマネージャーは縁の下の力持ちだ。 【例文2】裏方で作業する縁の下の力持ちの人にも感謝する。 【例文3】どんな職業にでも縁の下の力持ちがいる。 縁の下の力持ちはどんな組織にも必ずいます。会社で言えば経理や総務などの事務部隊がこれにあたるでしょうし、華やかなテレビ業界にもスタジオのセットを作ったり照明や小道具、編集など裏で動いている人の数ははかり知れません。 むしろ世の中の仕事の中で表舞台で活躍しているほんの一握りを除けば、ほとんどの仕事が縁の下の力持ち、と言っても過言ではないのではないでしょうか。 でも誰しも、一度は華やかな仕事に憧れる時期はありますよね。 子どもの時の夢は、サッカー選手、アイドル、作家・・・・一度きりの人生、縁の下の力持ちよりは、有名人や著名人になりたいと思うのは当たり前のことかもしれません。 でも縁の下の力持ちがいなければこの世の中は成り立ちません。 全ての仕事は、必要であるからそこに存在しているのです。 たまにそのことに気付かずに縁の下の力持ちを馬鹿にしたり、そういった役割を下に見ている人がいます。 街やビルがきれいなこと、商品がきちんと包装されていること、食品が安全に食べられること、ライフラインが常につながっていること、日本ではこれらがあたり前ですが、そうでない国はごまんとあります。 それらの仕事をしている人たちの名が、後世に伝えられることは正直あまりないことかもしれません。 でもそんな無名の彼らに、一部分の有名な彼らは支えられて生きていることは紛れもない事実なのです。 それに気づかない人間に成功はなし、と私は思っています。 互いに尊敬しあい、感謝できる、そんな謙虚な人間でいることが、この日本と言う国にはもっと必要な部分だと日々感じるのです。 「縁の下の力持ち」には意外な由来があります。聖徳太子が建立した七大寺の一つ大阪の四天王寺の太子殿の前庭では陰暦の2月22日に行われる経供養で「椽の下の舞」が演じられています。経供養とは中国から日本に仏教経典が伝来した記念として始まり経典とともに伝えられた舞楽を奉納することで太子殿の椽の下で行われています。椽とは木造建築の屋根板を支えて棟から軒に渡す垂木のことです。「椽の下の舞」は長い間完全に非公開で行われる重要な儀式だったのでそこから陰で人知れず努力することを「椽の下の舞」というようになりました。言葉が伝わっていく過程で「椽」は「椽」に変化し「舞」は経供養の秘儀を知らない人にもわかりやすい「力持ち」に変化していったそうです。「縁の下の力持ち」の言葉から床下で支える力持ちをイメージ=人知れず陰で支えてくれる人だと思っていたのですがまったく違いました。「縁の下」とは床下とか縁側の下ではなく軒下を指す言葉だったんですね。本当に故事やことわざは思い込みで覚えていたり勝手にイメージして勘違いして覚えているものも多いようです。語源を調べてみるとまったく違って覚えていることもよくあります。正しく理解していないと誤った使い方をしてしまいそうなので時々は調べてみるのも楽しいです。

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縁起を担ぐ

【漢字】縁起を担ぐ 【読み】えんぎをかつぐ 【意味】良い結果が得られるように、良い事と結び付けて何かを行う。 【例文1】縁起を担いで受験前はトンカツを食べるのが我が家の恒例。 【例文2】縁起を担ぐとすべてうまくいく。 【例文3】キットカットを食べて縁起を担ぐ。 私はけっこう縁起を担ぐことが多いです。 もともと普段から神社仏閣にお参りに行くことが多いので、どうしても目に見えない力を信じる気持ちが強いのかもしれません。 どんなことでも気持ちが動かなければ、実際にどう動いて良いのかわかりません。 時にはなかなかやる気が起きずに、行動できないこともあります。 このような時、普段からやっている縁起を担ぐ行いをやることによって、やる気が起きてくることがあります。 一種にジンクスのような儀式のようなものですが、それを習慣にすると、逆にやらないと何となく気持ちが悪い気がするものです。 気持ちを落ち着かせることで物事がうまくいくことは良くあります。 初めに気持ちを落ち着かせるために、縁起を担ぐ行いを取るのは良いことだと思っています。 また、縁起を担ぐ行いをやることによって、今よりも状況が良くなるのではないかという期待も込められています。 それによって、実際に良くなることもありますが、そうでない時もあります。 しかし、一見良くないことが起こっても、そこで諦めてしまわずに、そこから以前よりも良い方法を見つけ出すこともできます。 そうなって初めて、やはり縁起を担いで良かったと思えるようになります。

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襟を正す

【漢字】襟を正す 【読み】えりをただす 【意味】衣服の襟を整えて気を引き締める。 【例文1】明日は入社式だ。気合いが入るよう襟を正す。 【例文2】面接試験で襟を正す。 【例文3】結婚のご挨拶に襟を正す。 「襟を正す」の語源・由来は昔長安の有名な易者に会いに行った役人たちが易者の易にとどまらない深い博識に感動して自然に冠の紐を締め直し上着の襟を正しきちんと座り直して話を聞き続けたという故事に基づくものです。このことから今までを反省し改めて身を引き締めて事に当たる事を表すようになりました。「自分の乱れた衣服や姿勢を整えること」の外見的な意味と「それまでの態度を改めて気持ちを引き締めること」やの内面的な意味があります。 また「真面目な気持ちで物事に対処する」という態度を示しています。会社などで上司に「皆、襟を正して聞くように!」と言われて思わずスーツや作業服の襟に手をやり整えていると「君は何をやっているんだ?」と笑われてしまいそうです。これは「皆、気持ちを引き締めて聞くように!」という意味で言っていて服装を正して聞きなさいという意味で言っているわけではないからです。そもそも会社では皆きちんとした身なりをしているでしょうし自堕落な格好をている人はいないと思います。しかし「襟を正す」には服装を整えるという意味と気持ちを引き締めるどちらの意味もあるし服装を整えることで気持ちも引き締まるのであながち間違っているとも言えません。 「襟を正す」とは「姿勢や服装の乱れを整え、きちんとすること。心をひきしめ真面目な態度になること」です。この言葉は洋装が外国から入ってきてからの言葉です。江戸時代には和装でしたから、襟口のことは衣紋と言いました。職人さん以外では着物は襟をきちんとして着るのがマナーでしたが、家では衣紋を抜く、つまり襟元をゆったりと広げて着る、いわゆる暑さ対策です。また、そのように着ていることが粋でした。しかし、お客さんが見えたり、買い物になどで表に出る時には襟を正して礼儀正しくします。それを「衣紋を繕う」と言いました。ですから、今でもある程度の年配者はハンガーのことを衣紋掛けと呼びますよね。現代でも和服を着た時やお祭りの半纏を着た時など、どれくらい衣紋を抜くかが、考えどころです。あまり抜いてはだらしがないし、衣紋を抜かずにぴちっと着すぎても、ぜに首みたいでおかしい。どの程度抜くのが粋か。また、年によっても変わります。若い人があまり抜いていては遊び人か、好き者かと見られますし、本当に迷います。そんな時には年上の方にご意見を伺うのが常套手段。衣紋の話ではありますが、襟を正して拝聴します。絶妙なご意見が出てきます。さすが年の功です。「年配者が一人亡くなることは図書館をひとつ失うのと同じ」という言葉がある国がありますが、皆さんも「襟を正し」て年配者の意見を傾聴してみませんか。貴重な収穫があるに違いありません。

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海老で鯛を釣る

【漢字】海老で鯛を釣る 【読み】えびでたいをつる 【意味】海老で鯛を釣ることから、小さな事で大きな利益を得る。 【例文1】1000円の元手が10万に増え海老で鯛を釣る。 【例文2】1枚の宝くじから海老で鯛を釣る。 【例文3】バレンタインのお返しはブランド品で海老で鯛を釣る。 少しの資本で大きな利益を得る時に用いる諺です。辞書によって漢字表記が違い、蝦や蝦魚と書いてエビと読んでる場合もあります。私にとっては海老というとお祝いとかめでたい時に食べる事が多くて贅沢なイメージがあったので海老で鯛を釣るのはリッチだなと感じたのですが、きっと小エビの事を言っているか時代の価格の違いがあったからなんだろうなと解釈しています。 諺は中学の国語の授業にあって徐々に知っていきました。夏休みには宿題として諺を暗記するので色々覚えた中のひとつにありました。この諺だけ何故か替え歌にしながら意味と一緒に歌ったりして馴染みがあります。歌ってると家族も一緒に口ずさんでくれ楽しかった思い出にもなってます。海老の部分を英語で毎日という言葉に変えてeveryday鯛を釣ろう~と毎日大きな得を望むように歌ってました。実際で言えば中々そんな機会には恵まれず、例えば宝くじは元手よりも遥かに大きな利益を求めて買うわけですが、夢見て終わるのが常です。ですが利益を物質で求めないなら出掛け先で帰りがてらちょっと海に寄り道した時に、夕日が沈む時間とドンピシャで綺麗な景色を見れた事がありました。その海までは駐車場から結構歩かないと辿り着けないのですが、見終わった後はその歩いた労力が苦にならない程気持ちが晴れていました。本当はどんな時にも思いがけず得と思える機会があるのかもしれません。

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絵に描いた餅

【漢字】絵に描いた餅 【読み】えにかいたもち 【意味】どんなに上手に描かれた餅でも、しょせん絵にすぎない。本物でなければ意味が無い。 【例文1】贋作は絵に描いた餅だ。 【例文2】どんなによくできた品でも所詮コピーブランド品は絵に描いた餅。 【例文3】サギ師は所詮は絵に描いた餅。 今の日本の政治における雇用政策を客観的に見ると、まるで絵に描いた餅のようだ、と思います。 特に女性の視点から見ると、その様子はよりはっきりと映し出されます。 男女雇用機会均等法が成立し、女性の社会進出を推進してきた日本。 ただ今でも政治課題として挙げられている中には、ほぼレギュラー化している女性の正規雇用問題や、それに伴う待機児童の減少や少子高齢化などがあります。 女性の正規雇用を増やそうと散々謳っておきながら、日本の女性管理職率は未だにワーストレベルですし、待機児童問題も核家族の影響で子どもを家で見るしかない 母親たちは後を絶ちません。 育児休暇や産休を未だにとれない会社もあります。とったとしても正社員で継続雇用してもらえないケースや、今までのキャリアを無視するような配属にされてしまうなど、 なにかしら問題を抱えている企業が多いのが現実です。 もちろん、会社側の立場からすれば、子どもを産む前と同じ立場で復帰させたり再雇用するのは難しいという現状もあるでしょう。 女性側もすべての条件を飲め、という女性はいないと思います。子ども抱えて以前のように働くのは彼女たち自身も難しく感じるからです。 でもだからといって「働け・産め」のなかなかハードな条件を突き付けられている割には、制度が追い付いていないと感じる昨今なのです。 そろそろ「絵に描いた餅政治」はおしまいにして頂きたいものです。 絵に描いた餅という故事の意味は、「実際には何も役に立たないことのたとえ」、もしくは「実現する見込みがないことのたとえ」のことを言います。 この故事ですが、私たちが所属した企業や社会、政治の中において、この故事のような場面に遭遇する場合があります。 例えば、企業の事業計画や構想の内容です。 確かに内容はすごいのですが、実現性を考えた場合に資金繰りやスケジュールといった具体性が全く見えない場合、この計画は絵に描いた餅だと思う場面が多いと思います。 また他の例としては、人物に対してです。 有言実行な人物とうのはなかなかいらっしゃらないのが現実です。一方、夢だけを語り、実際にはその人物の力量では実行性がない方は世の中には多く見受けられます。 このような場面においては、「夢やビジョンはすごくても、所詮あの方が言っておられるのは絵に描いた餅だ」という表現をすることはあるのではないでしょうか。 さらに政治の世界となると、まさに絵に描いた餅のビジョンやマニフェストが多いことに気づかれるのではないでしょうか。 このように、絵に描いた餅という言葉は、役に立たない、実行性がないという、マイナスとして捉える場合で使われます。

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江戸の敵を長崎で討つ

【漢字】江戸の敵を長崎で討つ 【読み】えどのかたきをながさきでうつ 【意味】江戸で受けた恨みを遠く離れた長崎で打ち返すたとえから、意外な所から仕返しをすること。 【例文1】10年前の父の恨みを江戸の敵を長崎で討ってやった。 【例文2】パワハラ発言をする上司が、停車していた私の車にぶつかってきて過失がない私は慰謝料も請求し江戸の敵を長崎で討つ。 【例文3】30キロダイエットに成功して元カノに江戸の敵を長崎で討つ。 『江戸の敵を長崎で討つ』には二つの意味があります。ひとつは意外な場所で昔の仇を討つこと、もうひとつは筋違いなことで仕返しをすることです。前者は江戸と長崎がかなりのよりがあること、後者の語源は江戸の興行において大阪の竹細工職人が大人気になり江戸の職人の面目が丸つぶれになっていた時に、長崎のギヤマン・ビードロ細工の職人が現れ大阪の竹細工を凌ぐ人気になったことから、江戸の職人が溜飲をさげたということで「江戸の敵を長崎が討つ」ともいうことです。 この言葉で私が経験したことを思い出します。決して恨みをはらしたということではありません。 以前、あるスーパーの駐車場に車を停めていて、そこから私の車を出そうとしていました。その駐車場はとても狭く道路まではずっとバックでしか出られません。その時1台の緑の車が入ってきたのでその車が駐車し終わるまで待つことにしました。緑の車の運転手は運転が苦手らしく、何度も切り返しを行い4回ほど出たり入ったりを繰り返していました。やっと緑の車が停まったようなので私の車を再びバックさせると、「ドン」と衝撃が来ました。すると緑の車はまたバックしたようで私の車の後部と衝突していました。その後は緑の車の運転手とどっちが悪いかの口論となり、代理人を通しての話し合いも不調となり、相手が修理代を求めて私の家に上がり込んでくるなどの大トラブルとなりました。もちろん私も相手への恨みが募りました。1年ほどで和解しましたが、結局私のほうが一方的に修理代を払うことになりました。その後この緑の車を見かけるたびに腹立たしい気持ちになりイライラすることの連続でした。 しかし、あるスーパーで偶然緑の車の運転手を見かけました。5歳くらいの孫と買い物をしているようで、今まで見たことのないような優しい顔で孫との買い物を楽しんでいました。その時に「あぁ、この人も根はやさしい人間なんだ」と心の中で思い、いつの間にかその人への恨みが薄らいできました。 江戸の敵を長崎で討ってはいませんが、あるスーパーで起こった恨みが別のスーパーでの出会いで消える出来事でした。

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得手に帆を揚げる

【漢字】得手に帆を揚げる 【読み】えてにほをあげる 【意味】得意技を発揮できるチャンスが来る。 【例文1】球技大会でバレーボールに出場して得手に帆を揚げる。 【例文2】ムードメーカーの彼は同窓会の幹事に得手に帆を揚げる。 【例文3】面白い同寮が友人代表に得手に帆を揚げる。 「得手に帆を揚げる」これ、初めて聞いたことわざです。 自分の得意なことを発揮する機会が来たから今だってやること、今だって奮起していることです。 でもちょっと皮肉っぽく調子に乗ってるって解釈してるのもあれば、チャンスが来て喜んでる様子みたいな解釈もあるんだな。 実際に使うとしたら「〇〇さん、二次会カラオケって決まって得手に帆を揚げてるね。」みたいな感じかな。それで〇〇さんがご気分を損ねた様子だったら前者の解釈をしているってことで「まあね!」って返事だったら後者の解釈をしているってことだね。で、ポカーンってしてたら初めて聞いたことわざですね。よし、次の宴会の二次会はカラオケにしてみよう。

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悦に入る

【漢字】悦に入る 【読み】えつにいる 【意味】自分にしかわからない悦び(よろこ)を表す。物事がうまくいき1人で自己満足している様子。 【例文1】自撮り写真が良く撮れて悦に入る。 【例文2】好きなアニメキャラのゲームを手に入れ悦に入る。 【例文3】コスプレをして悦に入る。 創作キャラを戦わせて強さ比べをするのが好きな人達なら一発で分かるほどのインパクトを持つ名言です。 (あまりにも長すぎるため一部だけ書きます。) 「やりよう次第で、弱者であっても強者をたおせるとでも言うように。そのほうが、さも高尚な戦であるかのように演出して悦に入る」(全文は長すぎるので省略します。) このノベルゲームのキャラの発言を要約してみます。 (宇宙に存在するグレートアトラクターや超新星爆発、ビッグクランチ、超光速、部下の持つ全ての特殊能力を使える、広大な宇宙が、この宇宙とは別に無数に存在する多元宇宙理論などの、小難しい物理学に基づいた圧倒的なスケールなどを持ち出して小難しい理論武装で自分を強く見せようとしても、どこまでも天井しらずに強くなり続ける戦闘能力を持った者のかませ犬に過ぎません。 次元違いという表現ですら生ぬるいほどのパワーの差で、最新の宇宙理論に基づいた素粒子などを利用したタイムパラドックスや宇宙の外まで及ぶ破壊能力を完全封殺してこそ最強。 他には、武器無しで熊も倒せない弱者が、弱い特殊能力も上手く応用し、使いこなし方によっては山も崩せるはずだと得意気になっている事に呆れる。) ここまでキャラクターの名言を要約してみました。ネタバレ防止のためキャラ名、ゲーム名は伏せます。 つまり他作品で例えるとサイヤ人や破壊神達のほうが、情報統合思念体よりも強いという考えを持てないと最強たる資格は無いという考えだと思います。

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会者定離

【漢字】会者定離 【読み】えしゃじょうり 【意味】出会った者は必ず別れがくる。 【例文1】お隣さんが仕事の転勤で外国に引越しする事になった。会者定離で仕方がない。 【例文2】会者定離だけど今は連絡手段が発達して離れていても便利だ。 【例文3】離れていてもテレビ電話で会者定離を感じない。 人気のテレビドラマが終了すると、その番組名に「ロス」という言葉をつけて、「連続ドラマが終わって、〇〇ロス症候群になる人が続出」というような表現をすることがよくあります。 毎回見ていたドラマを見られなくなったために、さみしさを感じたり、心の中にぽっかり空洞ができたように感じたりする心理状態のことです。 また、飼っていたペットが死んでしまうと、ペットロスになる人も少なくないでしょう。この「〇〇ロス」という言葉は、仏教の教えに通じるものがあります。 その教えは「会者定離(えしゃじょうり)」。ブッダが亡くなる前、最後に説いたとされる教えを記した『遺教経(ゆいぎょうきょう)』に出てくる言葉で、「この世で出会ったものとは、必ずいつか別れが訪れるものだ」という意味です。 『平家物語』では「生者必滅、会者定離」という形で記されていますが、いずれも仏教の本質である「無常観」を表現した言葉と考えていいでしょう。 仏教には「四苦八苦」という教えもあり、その中にも会者定離の考え方が出てきます。「四苦八苦」というのは、人間がこの世で味わう根本的な苦しみを分類したものですが、その中に、「愛別離苦」という言葉があります。これは「愛するものと離れなければならない苦しみ」という意味で、まさに「〇〇ロス」をそのまま表現した言葉ということができるでしょう。 つまり、「〇〇ロス」という言葉と心理は、仏教の根本的な教えに通じるものがあるというわけなのです。

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栄枯盛衰

【漢字】栄枯盛衰 【読み】えいこせいすい 【意味】繁栄がいつまでも続く事はなく、いつかは衰えていくものである。 【例文1】かつての国民的大スターの30年後は栄枯盛衰だった。 【例文2】栄枯盛衰なので老後を考える。 【例文3】かつての二枚目俳優も40年も経てば栄枯盛衰でただのオジさんだ。 「栄枯盛衰」の栄枯は「草木の青々と繁ることと枯れること」で盛衰は「栄えることと衰えること」で「栄枯盛衰」とは「栄えたり衰えたりすること」を表します。この言葉で思い浮かぶのは鴨長明の記した「方丈記」か「平家物語」でしょう。鴨長明の時代は大地震や大火などの災害が多く、建物だけでなく人身もかなりの被害が出ていたと言われています。未曽有の被害を目の当たりにした鴨長明が行きついた境地を表したのが「ゆく川の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。」(川の流れは絶えることはないが、それでいても、もとの水ではない。淀み水に浮かぶ水の泡は、一方で消えると、一方で新しいのができて、いつまでも水の泡がそのままでいる例はない)で始まる「方丈記」。都に瓦を並べる建物も大きい建物が小さくなったり、建物がそのままであっても持ち主が変わっていたりとそのままではないのだと、世の無常を見事な文章で私たちに語り掛けてくれます。また、「平家物語」も「祇園精舎の鐘の声。諸行無常のひびきあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす」(お釈迦様が説法した場所祇園精舎にある鐘の音は、僧が亡くなる時には自然になりだし、諸行無常の響きを立てる。お釈迦様が入滅する時に真っ白に変わったという沙羅双樹の花の色は盛者必ず衰えるという道理を示している)と話の冒頭から平家の勢いとその滅亡を表現しています。 どちらも「栄枯盛衰」を見事に表現し、今も色あせない魅力のある作品ですね。

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英気を養う

【漢字】英気を養う 【読み】えいきをやしなう 【意味】何かに取り組むために十分に休養をとる。 【例文1】英気を養うために明日から旅行に出る。 【例文2】友人と温泉に浸かり英気を養う。 【例文3】週末は家で英気を養う。 英気。この言葉を辞書で調べたら、こんな事が書かれてありました。 人並み優れた気質。才気又は気力。 この言葉自体に当てはまる人は他でもないフィギュアスケート選手浅田真央さんです。 5歳の頃からスケートを始めやがてジュニアグランプリを制し、12歳でシニアと混じって特例でグランプリファイナルの出場を果たしそこで優勝し、シニア転向後グランプリファイナル4連覇、3度世界選手権を制覇し、バンクーバー五輪では、銀メダル、2度目の五輪ソチでは、メダルこそ逃すも、全世界を感動と涙で締めくくった伝説のフリーの演技は、一生人々の記憶に残る事でしょう。 そういった、浅田真央さんが全て持っている英気というものを養う。この言葉に色々な思いが込められていて、座右の銘にしたいくらい大事な言葉になりました。 真央さんも、とうとう引退表明を行わなくてはならないのが残念で仕方ありません。 ですが、次の人生のステージに向けて、先ずはプロ転向して今夏アイスショーに出演するとの事、充分英気を養って、プロ後、スケートで恩返しが出来るような偉業を成し遂げてもらいたいものです。 決して、これでもう真央ちゃんとは、一生のお別れという訳ではありませんので、又、可愛い笑顔と人を包み込む優しさを持って、私達の前に現れて頂きたいです。 国民栄誉賞を貰うとか貰わないとか関係なく、私達国民の永遠のアイドルだと思ってます。 浅田真央さん、色々と有難う御座いました。そして、お疲れ様。

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