tedukurikotoba (2563)

大魚は小池に棲まず

【漢字】大魚は小池に棲まず 【読み】たいぎょはしょうちにすまず 【意味】 【例文】 「大魚は小池に棲まず」ということわざのように、人にはそれぞれ適材適所があると思いました。 優れて有能な人はやはりそれに見合う場所で活躍するのが良いと思います。 世の中には何らかのしがらみの影響で、大魚でも小池で我慢して生きている人もいるのかもしれません。 そういう人は自分の本当の実力を過小評価しすぎているとも言えるので、それは非常にもったいない話です。 自分の価値を過大評価しすぎるのも、これはこれで問題ですが、その逆になって、小さいところで甘んじてしまい、満足しないように気をつけたいものです。 どんなに優秀な人でも失敗をすることがあり、その時は大魚でも大河に出て行く勇気はないかもしれません。 そんな時は小池で十分に英気を養い、再び大河に出ていけば良いと思います。 仮に大業が小池に住むことがあったとしても、それは一時のことです。 やはりそこは本来、住むべき場所ではなく、いずれ大河に出ていかなくてはならないでしょう。 もし、今の生活がぬるま湯に浸かっているようであれば、やはり少し上を目指して大魚に近づいていきたいものです。 同じ所にとどまらず、また甘んじることなく、今自分ができることを精一杯やっていき、自分に合った世界に繰り出していきたいと思います。 大魚は小池に棲まず、真に能力のある物は小さな環境で満足しない、という意である。 僕は最初この言葉を知った時、傲慢な魚もいるものだ、と感じた。 自らを大魚と称し、自らの棲む池を小さいなどと宣うなんて大それた魚だなあ、と。 しかし、今の日本社会に必要とされているのはこの精神性なのではないかと最近思い直すようになった。 日本は自殺大国である。 人間関係、仕事、金銭問題などその理由は様々であろうが、自分の生に価値を見出せずに、自らの命を絶ってしまう人が多い。 また、過労死という極めて特殊な死因が、それを示す言語が一般に認められている国でもある。 病気や事故など肉体的な理由ではなく、精神的な理由で多くの日本人は日々亡くなる。 「逃げればいいのに」「辞めればいいのに」 外から見た人がそういった思いを抱くのは当然である。僕もそう思ったことがある。 しかし、彼らは逃げない。逃げられない。 その最たる原因は偏に「自己評価の低さ」であるのではないか、と僕は思う。 「僕が逃げたら周りに迷惑がかかってしまう」「今の仕事を辞めたら次の仕事なんて簡単には見つからない」 そういった考えが彼らの脳中には渦巻いているのだろう。 その考えこそが何よりも自分を追い詰めているのだ、ということには彼らは決して気づかない。 だからこそ、今この日本社会において、「大魚は小池に棲まず」の精神性が重要なのだ。 例え本心でなくとも、自らを大魚と称し、今の環境を小池と言い切るだけの図太さが重要なのだ。 「こんなところは僕がいるべき場所じゃない、もっとふさわしい場所が必ず僕にはある」 そう自ら嘯いて、自分の生きる道を都度、修正していく生き方こそが、今この日本において最も必要とされるべき精神性なのだろう。

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我田引水

【漢字】我田引水 【読み】がでんいんすい 【意味】自分の田んぼにだけ水を引く様子から他人の事は考えず、自分に都合のいいような言動をとる。 【例文1】我田引水でいい迷惑だ。 【例文2】何とも我田引水な上司だ。 【例文3】言い訳ばかりで我田引水。 私の職場に我田引水的な上司がいます。人の失敗は強く罵倒する癖に自分が間違っていることは我田引水。自分勝手で間違ったことを認めようとしません。私が怒られるときは、そんな間違いをして等とことん叱責するのに自分が間違った時は自分勝手です。誤魔化して笑いでその場を取り繕うとします。この人間何なんだといつも思っています。とにかく自分勝手なんです。我田引水で自分の気にくわないことがある時はブスっとして顔に現れます。調子のいい時は反対に冗談めいたことを言ってくるわけですが、性格がひねくれていますから、もう限界です。相手にしたくもありません。 しかし立場的には管理職なので自分もこの人に対してどう接していいか途方に暮れています。今で言うパワーハラスメントではないかと思います。理想の上司というのは、性格的にも人間的にも仕事上も出来ていなければならないと思っていますが、どうしてこんな人間が我田引水な人間が上司にいるのか困っています。1度ギャフンと言わせたいのですが、これ程のひねくれた人間に対してギャフンいわせるにはどうしたら良いか悩んでいます。周りの職員もほとほと困り果てています。反対に自分のその上の上司にはおべっかを使う始末です。

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一蓮托(託)生

【漢字】一蓮托(託)生 【読み】いちれんたくしょう 【意味】結果がどうであろうと行動を共にする。 【例文1】一蓮托生で頼もしい彼について行く。 【例文2】どんな事があっても家族は一蓮托生だ。 【例文3】職を失っても一蓮托生で支える。 一蓮托生とは善悪の結果になろうとも運命をともにすることです。 一生行動をともにするといえば一番は家族です。 両親がいて夫がいて子どもがいる家族がかけがえのない一番の宝ものです。 仲間もそうです。若い頃転職を繰り返しては挫折したこともありましたが、ようやく今の仕事に就いてそこで定年を迎えようと決意したのも助け合える仲間と出会えたからです。 私は前は人間関係などは仕事をしていれば関係ない仕事だけをこなせばいいんだと一蓮托生で思っていました。上司とトラブルがあってもただただ穏便に解決することだけを願っていました。それがたとえ理不尽であろうとも・・しかし段々と疲れてきてとうとう会社に行くのが嫌になり、辞職を迫られた時はもうすっかり諦めもついていてスパっと未練なく辞職しました。義理の兄の勧めでサービス業に就くことになりました。少しは不安もありましたが、アットホームな感じで何より人柄がみんないいです。困った時はお互い様だといって融通を利かせてくれる事もあります。こんなことをされたら私だってそうゆう気持ちになれます。まだまだ半年ですが、本当に恵まれた環境に感謝しつつ、早く一人前になって貢献したいです。

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新しい酒は新しい革袋に盛れ

【漢字】新しい酒は新しい革袋に盛れ 【読み】あたらしいさけはあたらしいかわぶくろにもれ 【意味】新約聖書より新しい思想を表現するにはそれに応じた形式が必要。いつまでも古い形式にこだわってはいけないという教え。 【例文1】新しい酒は新しい革袋に盛れと言うし、これからは膨大な量をパソコンで管理する。 【例文2】写真の保存は増える一方。アプリで新しい酒は新しい革袋に盛れ。 【例文3】手書きは遅い。新しい酒は新しい革袋に盛れの時代だ。 大手製造会社の隠ぺいやデータ改ざん問題など、ものづくりの現場で相次ぐ不正が発覚し、品質に対する国内外の信頼が揺らぐ事態に発展しています。 不正発覚後も改ざんを行う工場があるなど、企業のトップと現場の間では対応に温度差があり、他の企業での同様の不正が見つかっていることから氷山の一角なのではないかという不安の声も広がっています。 同様の不正が1社だけではなく日本を代表する複数の企業の間で行なわれていたことが明るみになったことで、高度経済成長などを経て日本を支えてきた日本の技術力や品質というものが、少子高齢化社会に突入したことによる働き手が不足などもあり、さまざまな場面で食い違いやほころびが見え始めているのではと感じています。 「新しい酒は新しい革袋に盛れ」とは、新しいことを行う際には新しい形式でもってやるべきであるという意味のことわざですが、長時間労働が問題となり「働き方改革」という言葉が聞かれるようになりましたが、それでも生産性だけは維持しようとする矛盾のような構造の中で発覚した今回の不正問題を見ていて、時代が移り変わっても古いままの革袋を社会全体で新しい革袋に取り替えるタイミングに来ているのではないかと思います。 昔老人ホームと言ったら町の措置で入所していました。老人ホームと言うか養老院と言われていた時期がありました。高齢者は老人ホームに入れられると言う思いがありました。老人ホームも山奥のひっそりとした所にほそぼそとあったようです。日本は超高齢社会になり、2000年に介護保険制度が出来ました。その頃から老人ホームが変わりました。新しい酒は新しい革袋に盛れです。今までのやり方では高齢者の受け入れ先がありません。多くの企業が老人ホーム経営に乗りだしました。そして老人ホームは措置の時代から介護保険制度の施行で契約の時代になりました。今までの老人ホーム経営ではもはややっていけません。新しい酒は新しい革袋に盛れであり、主役は高齢者になりました。老人ホームは知恵を絞って多くの気持ちになります企業が参入しました。そして今では過去の老人ホームのイメージは払拭されて、新しい酒は新しい革袋に盛れで各企業は競って高級老人ホーム経営をしています。今では高齢者の産業は大きく成長しました。各企業は高齢者獲得に色々工夫して高級ホテル以上の法人もあります。入居金が1億と言ったところも出てきています。この業界は新しい酒は新しい革袋に盛れです。

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目を配る

【漢字】目を配る 【読み】めをくばる 【意味】注意してよく見る。 【例文1】新人の作業に目を配る。 【例文2】患者に目を配る。 【例文3】生徒に目を配る。 どのような職業でも、目を配る事は大切です。 中でも人のお世話をする職業の人は、必要以上に目を配る必要があるのです。 そんな職業の一つに、看護師があります。 看護師は医師の指示の元、患者さんの治療の手助けをします。 医師は患者さんの病気やけがの治療だけすればいいのですが、看護師は患者さんの身の回りのお世話までしなければなりません。 ですからある意味、医師よりも看護師の方が責任が思いと言えます。 医師といえども人間ですから、間違った指示を看護師にする事があります。 それをそのまま医師に指示をされたからと言って、看護師が患者さんにしてしまったのでは、下手をすると患者さんは生命の危機にさらされる事があるのです。 ですから看護師は医師に指示された事をしっかりと頭で把握して、医師の指示が間違っていないか判断する必要があります。 患者さんは医師や看護師に言われるがまま治療を受ける訳ですから、医師だけでなく、看護師も患者さんに必要以上に目を配る必要があるのです。 また人のお世話をする職業としては、介護や保育がありますが、これらの職業に携わっている人達も、お年寄りや障碍者の方や子どもたちに必要以上に目を配る事が大切です。 必要以上に目を配る事は大変なことかもしれませんが、人のお世話をする仕事を職業としている以上、がんばってもらうしかありません。 十代のときに、クラフトを学べる学校に一時期行っていたことがあります。そこの先生方は、生徒たちともメールアドレスや電話番号などの連絡先を気軽に交換するような、非常に距離の近い方々でした。人生相談、恋愛相談なんかも乗っていたみたいでした。また、遅刻している子や無断欠席をしている子に電話をかけて、起こしたりすることもあるくらいでした。 さて、その学校の同じクラスにいた男の子で、体験入学に来た高校生などが「かっこいい」とちょっと騒ぐくらいのイケメンがいました。その男の子は好きな女性がいたので、恋愛相談を歳の近い女の先生にしていました。別の教室を借りて連日相談していたのですが、それを見ていた女子たちが嫉妬してしまったのか、「あの人(女の先生のことです)、〇〇君(イケメン男子)と話してるとき、ふだんの顔と全然違うんだけど」と、イライラした様子で文句を言っていました。先生は若くて当時20代半ばくらいだったので、多分、二人の関係を勘違いしていた子も多かったと思います。 男の子は純粋に恋愛について年上の人に意見を聞きたいと思って相談していたのでしょうが、先生が生徒たちに目を配るからこぞ起きてしまった誤解だったなあ、という思いがしました。

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