tedukurikotoba (2563)

転ばぬ先の杖

【漢字】転ばぬ先の杖 【読み】ころばぬさきのつえ 【意味】杖は転んでから用意しても遅い。万が一に備え十分に準備しておく。 【例文1】海外旅行に、転ばぬ先の杖で体に慣れた食品と薬も持参する。 【例文2】転ばぬ先の杖で保険に加入する。 【例文3】転ばぬ先の杖で防災グッズを備える。 転ばぬ先の杖とは失敗しないように前もって入念に準備をしておくことです。 人の人生は、僅かないもので今日・明日にでも何が起こるか分かりません。 ですから何が起こってもいいように、備えをしておく必要はあると思います。 私が身をもって体験したのは、息子が車の免許を取得した時です。 月に1万円の自動車保険に加入しているのはもちろんの事、中免バイクも取得したいと教習所に通いバイクの免許も取得しました。車を止められない場所にも営業回りがありバイク通勤もたまにあるようです。もしもバイクで事故を起こすと生身の体ですから、仕事に差し支えがでては不安なのでオプションで+3000円で新たに休業手当の保障を付けました。2ヶ月したころに右折車が突っ込んでバイクから放り出されて救急隊から夕方電話がありました。息子に変わって状況を聞いたところ、頭は痛いが意識はある長くはしゃべれないのでもう切ると一報が入った時は心臓が止まるくらいびっくりしました。すぐさま110番に電話して今事故が遭った現場はどこなのか問い合わせしました。入院の準備をあわてて準備して搬送先に向かいました。事故の相手の保険屋さんも来て今後の保障は十分に対応させていただきますとお詫びの言葉で転ばぬ先の杖だと安心しました。

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肝(胆)が小さい

【漢字】肝(胆)が小さい 【読み】きもがちいさい 【意味】頼りにならない者。 【例文1】見て見ぬフリした肝が小さい男。 【例文2】大きな図体ばかりで肝が小さい男だ。 【例文3】何も言えなくて肝が小さい。 肝が小さいを良い意味で使う人はいません。 気が弱いとか臆病、度量がないなど、人として残念なイメージの言葉です。 同じような意味の言葉に、肝っ玉が小さいとかケツの穴が小さい、または蚤の心臓などがあります。 肝は話の肝という言葉があるように、大事なところという意味があります。 そもそも肝は内臓の一部ですが、昔は内臓そのものを肝という一文字で表現していたことがあります。 あまり詳しく知られていなかった時代ならではです。 内臓は体の主要部分、中心であることから、根幹とか急所という意味につながったものと思われます。 また肝そのものを精神的な面で捉えていた風潮もあり、ズバリ心とか魂です。 この二つの意味から肝にまつわる言葉がたくさんあるのも頷けます。 肝に銘ずるなら精神的な意味で、心にしっかり刻むということになります。 肝が太ければ心が太い、つまりとても精神的に強い様を意味します。 私的には肝というより肝っ玉という言い方の方が味があって好きなのですが、肝っ玉が大きいとか小さいとか、子どもの頃はよく聞いていたものです。 しかし最近の若い人はそのような言葉を使うのかあまり知りません。 若い人がよく口にするキモッは一見、肝のことかと思ったら、全く違っていました。 時代と共に言葉が簡略化、簡素化されているようで、肝にまつわる言葉もそのうち消えていくのかもしれないと思うと、なんだか寂しく感じます。 肝が小さいという言葉の意味は、非常に度胸がなく頼りないさまのことを言います。 よく肝っ玉が小さいといった言葉でも表現されます。 肝が小さいと、責任のある仕事もできません。 例えば、経営者においても、肝が小さくで、経営判断ができないとなると、会社の行く末を大きく左右してしまいます。 また、最近は評論家のような上司が多く、仕事上の判断ができない方が多いのが実情です。 部下たちが上司の判断を仰ぐべく、色々な情報を仕入れ、まとめて報告をするのですが、その報告からも決断まで時間を要し、結局、その上司の上の上司が判断するというありさまです。 このような評論家のような、またお客様のような上司がなぜ生まれてしまうのかがとても大きな疑問ではありますが、総じて言えるのは、度胸がなく、判断できないということであると思います。 つまり、肝が小さいということです。 このような肝が小さい人は、目先のことや、周りの評価ばかりを気にしてしまう傾向もあります。 テレビ番組で出演されているコメンテーターも、結局自分たちの意見を言っていることもなく、責任の所在のないような発言も多いです。 このようなコメンテーターの方々も、肝が小さい人が多い気がし、インパクトのある、心に残るコメントを残す人はほんの一握りの方だけです。 人間には誰しもにコンプレックスがあります。 コンプレックスは人間にしかないようにも思え、無意識のうちに他人に勝ちたいと思う向上心の裏返しなのかもしれません。 私の場合は肝が小さいことがコンプレックスで、何をやるにも人前ではあがってしまい、子どもの頃から人の陰に隠れたがる臆病な子でした。 小学生の頃は登校した日の朝に提出しなければいけない提出物を放課後、生徒が少なくなってから先生のもとへおずおずと出しにいくような子どもで、今にして思えば先生を困らせていたなと感じています。 そんな自分の性格が嫌で悩んだ時期もありましたが、コンプレックスは誰しもが多かれ少なかれ抱える問題であり、自分にとってはとても重大な欠点のように思えることでも他人にはほとんど見えていないということに気がつきました。 また他人にとっては自分に降りかかること以外のことに関しては、本当に些末なことでしかないということも言えると思います。 肝が小さいという性格もとらえ方次第で、慎重や用意周到というような良い意味の言葉に置き換えられることもまた事実です。 コンプレックスを抱えると主観的になり客観視ができなくなってしまうので、事実に着目して「考える」というよりも、こういう側面もあると「とらえる」ことを意識するとさまざまな見方ができるようになります。

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瓜田に履を納れず

【漢字】瓜田に履を納れず 【読み】かでんにくつをいれず 【意味】瓜畑でかがんで靴を履き直す動作は盗んでいるかのように見えるので、自ら疑われるような事はすべきではないという戒め。 【例文1】店内でキョロキョロするのは万引き犯に思われる。瓜田に履を納れずだ。 【例文2】夜道の黒い服装にマスク姿は不審者に疑われ瓜田に履を納れず。 【例文3】大きなバッグを持ってでウロウロと瓜田に履を納れず。 「人からあらぬ疑いをかけられるような行為は慎むべきだ」という意味で使われる「瓜田に履を納れず」という言葉。その言葉の意味は知っていますし、中国の故事に由来するという話を聞いたこともあります。 また、「李下に冠を正さず」という言葉と対になっているという知識もあります。しかし、「履を納れず」というのがどういう状態を指しているのかが、イマイチはっきりしません。 私はこれまでこんなふうに解釈していました。 「ウリの畑に入った時は、靴の紐がほどけても直してなならない。かがんで靴ひもを直すと、ウリを盗んでいるように思われてしまうから」。 しかし、改めて調べてみたところ、違う説明のものもあるのです。それは、「ウリ畑の中で靴が脱げても、履きなおしてはいけない」というもの。こちらの説明では、脱げた靴をそのままにしてウリ畑から出ることになりますよね。 ちょっと変な気もしますが、私の解釈にも問題があります。それは「当時の中国の靴は、靴紐のついたものだったのか」ということ。昔の靴というと木靴を連想しますし、木製の靴でなかったとしても、靴紐ついた靴を昔の中国人が履いていたとも思えません。 ということは、やはり「靴が脱げる状態」ということになるのでしょうか。これ、私にとってはけっこうな難問です。 「これが当時の中国の靴」というような資料を、ぜひ見てみたいと思っています。

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五里霧中

【漢字】五里霧中 【読み】ごりむちゅう 【意味】五里にもわたる霧の中は何も見えず迷うので、先が見えない。手掛かりがなく先の見通しが立たない。 【例文1】会社経営が五里霧中だ。 【例文2】業績不振で五里霧中。 【例文3】審査が通らず五里霧中。 私はこれまでの人生で、何度も人生の歩む方向が分からなくなった時があります。 いわゆる五里霧中と言う状態に陥ってしまい、どうしたらいいか分からなくなってしまったのです。 こんな時私は、家族や友人に相談したりしました。 ですがそれでも、結局答えは出せませんでした。 そこで私は、占いに頼る事にしたのです。 占いの真偽は良く分かりませんが、第三者の立場である占い師さんに占ってもらえれば、道が開ける様な気がしました。 それで早速、著名な占い師さんに占ってもらったのです。 占い師さんの言う事はとても説得力があり、五里霧中の私に一筋の光を指し示してくれたのです。 それから私は、占い師さんが出してくれた答えの通りに行動してみました。 すると、良い方向に人生が進んでくれたのです。 私はこの時やったーと思い、占い師さんに相談して良かったと思いました。 この後も私は、五里霧中に陥り、悩み苦しむ事がありました。 今度は家族や友人に相談せずに、直接占い師さんに相談してみたのです。 そしてまたもや占い師さんの言う通りにやってみたら、問題を打開する事が出来たのです。 私はこれまで何度も占い師さんに助けられているので、占い師さんを人生の師として、悩み事が発生した時に相談に乗ってもらっています。

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一攫千金

【漢字】一攫千金 【読み】いっかくせんきん 【意味】一度に大金を獲得する。 【例文1】一攫千金を狙って宝くじを買う。 【例文2】一攫千金なんて夢のまた夢だ。 【例文3】ビジネスが成功して一攫千金だ。 一攫千金といえば、宝くじではないでしょうか。 実際、我が家でも一攫千金を狙って、定期的に宝くじを購入していたことがありました。 宝くじというと、年末や夏に売り出されるサマージャンボを一番に思い浮かべる人も多いと思いますが、我が家の場合はもっぱらロトくじ、なかでもロト6を中心に購入していました。 最もよく購入していた時期には、週に2回、2口ずつ購入していたため、1年間にかかった金額はそれなりになります。 決して生活に余裕があるわけでもない私達夫婦が、欠かさずロト6を買っていたのは、ただただ一攫千金を夢見てのことでした。 しかし、ロト6という宝くじは、実際にはそう簡単に当たるものではありません。 我が家での当選経験といえば、年に数回、最低当選額である1000円が当たった程度です。 結局、週に2回2口ずつの購入は、3年を過ぎたあたりで止めてしまいました。 止めるきっかけとなったのは、ロト6購入に充てた金額をためておけば、それなりの貯金ができたのではないかということに気づいたことです。 一攫千金を目指していたものの、結果としては損をしていたことになります。 夫は、今でもときどき「ロト6買おうか」と言うことがありますが、私自身は、買ったつもりで貯金をした方がずっと有意義だと思っています。 一つかみの金又は物で大きなお金を手にする事を「一攫千金」と言います。「100円の馬券が万馬券になり、一攫千金を手にする」や「宝くじの一等が当選した彼は、まさに一攫千金だ」など、特に努力をする事なく大金を得られた時に使用されます。御伽噺の「わらしべ長者」などはそれこそそういう話であり、ある若者が神頼みをし、「金持ちになりたい」観音様に拝むと「今から最初に手にしたものがお前を金持ちにする」と言われ、最初に手にした品が只の藁一本なのです。紆余曲折ありながら物々交換で最後には家と畑をを手に入れるのですが、冷静に考えれば若者の持って生まれた強運のみで只の一本の藁から、家と畑にまで辿り着いたのです。現実の世界では中々そうは上手く行く訳ありませんし、そもそも藁を一本手にして高価な品に変わるというのを真に受ける人は早々いない筈です。その素直さと行動力が結果的に幸運を齎し、若者の思惑通りになったのです。きっと嬉しい誤算とはこういう事を言うのだと思います。但し、誰も彼もそういう憂き目に会える訳ではなく、先に述べた強運の持ち主にしか訪れないレアなケースというのを決して忘れてはなりません。一生の内一度でもそんな幸運が訪れれば充分で、一攫千金が矢継ぎ早にやって来る事があれば、それはずっと先の来世の幸運さえ使っているのかもしれません。 「一攫千金」とは一度にたやすく巨額のお金を手にすること言ったのたとえです。「一攫」はひとつかみという意味で「千金」は大金のことを指します。ひとつかみで大金を得ることから苦労をせずちょっとしたことから大金を手にすることを一攫千金と言います。苦労せず利益を得るということから地道に努力して利益を手にすることに使うのは間違いで、例えば宝クジを買って当てると言ったときに使います。使い方の例として「一攫千金を夢見て今年は宝くじを買おう。」「この株で大当たりしたら夢の一攫千金だ。」と言った使い方をします。一攫千金を狙うにはもちろんそれ相応のリスクも伴ってきます。投資で狙うのであれば、まだ自分の実力もないのに一攫千金を狙って大きな投資をすると損する確率の方が高いですなるべく少ない額からチャレンジしていくことをお勧めします。一攫千金を手にすれば人生大逆転にもなりますが、一攫千金を手にできる人はほんの一握りの人間だけです。少し間違えてしまうと、どん底人生なんてことにとなりかねません。楽して大金を手にするより、リスクがなく地道にコツコツと貯めていく方が確実です。たまに一攫千金を夢見て宝くじを買う程度がいいですね。

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