tedukurikotoba (2563)

脈がある

【漢字】脈がある 【読み】みゃくがある 【意味】見込みがある。期待が持てる。 【例文1】女性と連絡先を交換して脈がある。 【例文2】意中の子とやっとご飯に行く約束にこぎつけた。少しは脈がありそうだ。 【例文3】採用の脈がある。 脈があるとは期待が持てそうだという意味です。 大学受験の時期を迎えた私は、難関大学を狙っていました。それなりに勉強はしていましたが、どうしても数学が悪くて他の教科の足を引っ張っていました。数学を居残りで教えてもらいました。しかし思うように数学の点数が上がりません。数学さえできれば志望の大学には脈があると確信していましたので、親に頼みこんで塾に通わせてもらいました。先生の授業はわかりやすく偏差値は少しずつ上がりました。冬期講習には毎日通いスラスラ解けるようになり合格の脈があると思い始めました。自分を信じて受験に挑んだ結果は見事合格でした。キャンパスライフを謳歌しながら私生活では気になる子もできて話が合うので脈があると感じたのでお茶に誘ってみました。買い物という趣味も同じでますます息が合い、連絡先を交換しました。私の方から交際を申し込みOKをもらった時は嬉しかったですね。1年ほどお付き合いしました。 やがて就職活動を迎え何社も面接試験に挑みましたが、結果は不採用で落ち込みましたが、逆に何が駄目だったか改めて見つめなおしてみることにしました。5社目でやっと手ごたえを感じ脈があると期待しました。期待通り内定を頂き現在に至っています。

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腹を抱える

【漢字】腹を抱える 【読み】はらをかかえる 【意味】おかしすぎて大笑いする。 【例文1】お笑い芸人のネタに腹を抱える。 【例文2】マンガを見て腹を抱える。 【例文3】失敗して腹を抱える。 若い頃は友達といるだけでたわいのない出来事にでも腹を抱えて笑っていました。 テレビの漫才番組のネタを見てもちょっとした事でも面白く感じていました。 若い頃は何の苦労もせず、仕事もプライベートも充実しており、ただただ楽しい毎日を過ごしていたので、全てが面白いと感じていたのでしょう。 ですが、年を重ねる毎に、色々と苦労する思いが多くなり、最近は、腹を抱えるほど笑う事はなくなってきました。テレビ番組を見ても同じような芸人ネタや叫んでばかりいる芸人が増え面白く感じません。家に帰ってもご飯を食べて寝るだけの繰り返し生活となりました。 いつしか周囲から笑顔がなくなったとささやかれた事がありました。心配した友人がカラオケに誘ってくれました。あまり乗り気ではなかったのですが、好意を無下にするわけにもいかず、付き合いました。お酒が入り、次第に仕事のぐちを吐きました。言いたいことはハッキリ言えばいいとのアドバイスで何だかすっきりして十八番も歌って気分がノってきました。ほろ酔い気分になり久しぶりに腹を抱えて笑いました。よし、明日からがんばろうと勇気がわいてきました。友人にはとても感謝しています。

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天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず

【漢字】天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず 【読み】てんはひとのうえにひとをつくらず、ひとのしたにひとをつくらず 【意味】福沢諭吉の『学問のすすめ』の冒頭にある有名な言葉。家柄・職業・社会的地位の差別があってはならない。 【例文1】人は皆天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず。 【例文2】生まれながらにして天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず。 【例文3】天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らずで平等にいこう。 これは、福沢諭吉の言葉として有名です。 しかし、この言葉は誤解されていると、最近になって言われてきました。 「人は天の下、つまりこの世では皆、平等である」 と、元々はそんな意味として広まっています。 でも、ちょっと長く生きていると 「いや、この世は不平等にあふれている」 ということが身に染みてきますね。 福沢諭吉だって、きっとそれを感じていたのでしょう。 なので、この「天は人の上に人を造らず、人の上に下に人を造らず」という一文は 天は平等を造るが、天ではない人が不平等を造る。 なので「不平等を造る人になるな」 と、そういう意味を込めて発信されたものではないかと思うのです。 そこで、不平等はどうして生まれるのかを学べと説いていたのではないでしょうか。 不平等は、ささいな知識不足が原因で発生しがちなのです。 しかし、きちんとした知識があり、それを実行すれば不平等は解消が可能になります。 けれど現実には、こんな文明が発達して知識人が増えても、貧富の差は極端になるばかりです。 そこでもう一度、偉い人にも、福沢諭吉の言ったこの言葉の意味をしっかり理解して欲しいと思います。 そして、不平等を造っている人は自分ではないか、と想像して欲しいと思う私なのでした。 「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」とは、福沢諭吉の学問のすゝめの冒頭にある言葉で、人間はみんな平等なので身分の上下や家柄、貴賎、職業などで差別されるべきではないという意味です。本当は福沢諭吉は人はみんな生まれた時は平等であっても育っていくなかで違いが出てくるのは学問に励んだか、励まなかったかの違いだと言いたかったと言われています。この学問は学校の勉強だけでなく、社会で学ぶこと、人から学ぶことすべてを学問だと言っています。つまり人間生きている間はすべて勉強だと言います。この勉強を頑張るか頑張らないか、それで人に差がつくので学問に励みなさいというのが本当の意味だともされています。 このように解釈によって意味は変わってきます。人は皆平等であるのは生まれた時であってその後の平等であるか平等でないかは自分自身が決めることになります。私は学生時代勉強が苦手で避けてきた時もありました。社会人になってからはすべてが初体験で学ぶことも多く周りとも切磋琢磨しながら常に勉強だと思いながら仕事に励んでいます。なので人と差別されることもなく、頑張っている分上司からの評価も高くなりその分だけ収入も増えてきます。社会人になっても学ぶことはたくさんありますのでこれからも学問に励んでいきたいと思います。

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将棋倒し

【漢字】将棋倒し 【読み】しょうぎだおし 【意味】大勢の人が押し合って倒れる。 【例文1】出待ちのファンが将棋倒し状態になる。 【例文2】バーゲンセールで将棋倒しになる。 【例文3】火災発生で非常口が将棋倒しになる。 将棋倒しは混雑した人混みの中で起きやすいですが、エスカレーターに乗っていても将棋倒しに巻き込まれることがあります。ニュースでもやっていた事故ですが、比較的空いているエスカレーターで車椅子ごと載せた老人夫婦がいました。高低差5メートルのエスカレーターだったので、それほど長い距離だったわけではなかったのですが、車椅子が上から落ちてきて下にいたお婆さんが将棋倒しのように押されてしまい、全身を強く打って数時間後に亡くなってしまいました。車椅子に乗っていた主婦もあばら骨を折る重傷でした。この事故の場合は車椅子でしたが、小さいお子さんと一緒にベビーカーを乗せているマナーの悪い主婦もたまに見かけます。手を離したら後ろに落ちてくるわけですから、人が乗っていたらつられて将棋倒しになる危険があります。エスカレーターに乗るときは、前に車椅子やベビーカーを乗せている人がいないか見てから乗った方が良さそうです。他にも日常的に起こりえる将棋倒しとして、通勤電車やバスが混雑しているときに運転士が急ブレーキをかけることで、一度に将棋倒しとなり場合によっては圧迫されて心肺停止になるので怖いです。吊り革につかまっていても人の波が押し寄せてくると手を離してしまい、それにつられて隣の人を押してしまいますから、次々将棋倒しとなっていきます。将棋倒しの経験をしていないとわかりませんが、一度そうした経験をしてしまうと大勢の人が倒れてくる怖さを思い知らされます。 将棋倒しとは将棋の駒の遊びとしてあります。 将棋の駒に親しむ意味では、昔からある遊びですが、一方で将棋倒しという言葉が事故の意味で使われることがあります。 例えば、イベントでたくさんの聴衆が集まっている場合、1人か、数人によって不意にバランスを崩し、倒れたことによって、周辺の人たちが連鎖的に転倒する事故がありますが、この連鎖的に人が倒れてしまう様子が将棋の駒を使う「将棋倒し」に類似していることから、事故の様子を将棋倒しという表現を使うことがあります。 連鎖的な発生により、多くの人が死傷をしてしまう状況は大変悲惨なものがあります。 このような将棋倒しの事故は、警備が疎かになっている場合に発生します。 人が会場に押し寄せる際には、人の流れを把握し、流れを抑止するといった対策を施しながら、スムーズな運営をしていかねばなりません。 よく事故が起こるとされているのは、花火大会や、コンサート会場、または緊急避難時に出口に人が押し寄せる場合など、人が局所的に集中する際に発生します。 日常生活においても、駅のホームから出口に向かう際に、エスカレーターや階段に人が押し寄せる場合がありますが、このような場合でも、将棋倒しによって沢山の方々が怪我をする場合もありますので、注意しましょう。

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九牛の一毛

【漢字】九牛の一毛 【読み】きゅうぎゅうのいちもう 【意味】数多くの中の牛の毛1本というたとえで比較にならない程ごくわずかである。些細な事である。 【例文1】ロングヘアーを1cm切ったくらいでは九牛の一毛で気付かない。 【例文2】10円差の商品なんて九牛の一毛だ。 【例文3】君の悩みに比べたら九牛の一毛だ。 現在私は、二児の母、そして主婦を謳歌しています。 大学卒業後から5年前まで、「これが私の天職」と思える仕事にそれこそ没頭していました。 中堅の総合通販のバイヤーだったが、小さい会社の良いところ(悪いところと裏腹ではあるが・・・)で、商品開発、広告制作から、クレームまでそれなりに一貫して携わることができ、「生み」の苦しみ、そこから成し得られる喜びで、毎日が充実していました。スポーツメーカーと共同開発した、オリジナルウォーキングシューズが、100万足のヒットとなり、入社も15年を迎え、部下も10人を抱える地位まで来た頃、会社自体が大きな負債を抱え、全く異業種にM&Aされることに。トップバイヤーでもありながら、給与はそこそこの若手でもあったので、リストラ者が多く出る中、とりあえず同職種として残れることになりました。そこからが苦難の始まりでした。 若く、自己に過信があり、周囲も意見が通らないことがなかった環境から、全く異業種の上司に日々出される方向違いの指示が日増しにストレスになっていったのです。M&Aから自主退社するまで、2年足らずでした。 「大手は、人材をなんだと思っているんだ」「数で私の商品販売センスに太刀打ちできるか」と何度も思ったこともありました。 時が過ぎ、あの頃が今は昔と思えるようになって、久しぶりにその当時M&Aの交渉の矢面に立っていた、社長と食事する機会がありました。壮絶なやり取りを聞かされ、いかに自分達平社員が、当時の上司らに守られていたかを知りました。井の中の蛙でした。自分では、ジャンヌダルクのように戦っていても、大手から見たら、九牛の一毛だったのです。本当に幼かったなと今なら思えます。 「九牛の一毛」の語源となった司馬遷のように友人を守るという高尚な叫びではないが、人生の半分を迎えようとしている区切りに自分の小ささを知るというのは悪くないなと今では思えます。

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