tedukurikotoba (2563)

雀の巣も構うに溜まる

【漢字】雀の巣も構うに溜まる 【読み】すずめのすもくうにたまる 【意味】雀が少しずつ材料を運んできては巣を作りあげる様子から少しずつの貯蓄でも積もりに積もれば大きな額になるということ。 【例文】500円玉貯金を10年して雀の巣も構うに溜まる。 「雀の巣も構うに溜まる」という言葉があります。「すずめのすもくうにたまる」と読みます。 その意味は、雀が巣の材料を少しづつ運んでやがて一つの巣が完成するように、少しづつの金額でもこつこつ貯金すれば大きなお金になるということです。 近い意味のことわざに、「塵も積もれば山となる」「千里の道も一歩から」「雨だれ石を穿つ」などというものもあります。 何事も、少しづつでもいいから継続することが大事ということです。まさに「継続は力なり」という言葉もあります。 しかし、人間の意志の力というのはとても弱いので、どうしても三日坊主に終わってしまうことが多いのではないでしょうか。 少しづつ買い物や外食を我慢して、貯金しようと思っても、これだけ我慢したのだからたまには自分にご褒美、などと言い訳してかえってお金を多く使ってしまうこともあります。 続けるということは、とても大切な一方でとても難しいことだからこそ、こうした意味のことわざが多くあるのだと考えられます。 ただ我慢してこつこつ続けるのは飽きてしまいます。だから、自分なりに続けやすい工夫をしたほうが成功する可能性が高いでしょう。 人間の脳は怠け者で、楽しいことしか続けることができないものです。

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露命を繋ぐ

【漢字】露命を繋ぐ 【読み】ろめいをつなぐ 【意味】何とかかろうじて生活している状態。 【例文】少ない年金で露命を繋ぐ。 「露命を繋ぐ」とは「ろめいをつなぐ」と読みますが、このことわざの意味はなんとか細々と暮らしていくという意味ですね。 イメージ的には、全く余裕のない暮らしで、海外旅行に行ったり、高級車に乗り回したり、ステキなレストランで外食をするなどという派手なことを一切せずに、ご飯に卵を乗せしょう油をかけた卵かけご飯がご馳走だと感じるような暮らしです。 とりあえず、なんとか生きて行けるけれどやっと命を保っているというような状態が露命を繋ぐということなんですね。 しかし、この質素に生きるということはお金に余裕があったとしてもやるべきことなのではないかと私は思います。 人は少しでも稼げるようになると高級ブランドバッグやブランド物の時計を買いあさり、高級車を乗り回し、海外旅行に出かけてしまうものですよね。 確かに、お金が腐るほどあるような本物のスーパーリッチなお金持ちはそのような暮らしでもいいと思います。 でも、年収が1千万円ぐらいであれば、もしもの時や老後に備えて質素に暮らした方がいいと思います。 というのも、ちょっとしたお金持ちの経営者が経営が傾き、どん底の生活を強いられるという状況は身近でわりとあります。 そんな話を聞くと、なぜ、稼いでいた時に、この人は貯蓄しておかなかったのだろうかと他人事ながら、思ってしまいます。 世界の大富豪でもない限りは多少稼いでも、露命を繋ぐような生活で質素に生きて、貯蓄をしたほうが私は断然、利口だと感じています。

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我が仏尊し

【漢字】我が仏尊し 【読み】わがほとけとうとし 【意味】自分が信じるものだけが正しいと思い込んでいる。 【例文】我が仏尊しで視野が狭い 「我が仏尊し」とは、自分の信じるものだけをやみくもに大切にして、ほかの物を顧みない狭い心の状態のことです。そのような心掛けでは、ほんとうの心の豊かさや幸せを手に入れることなどできません。たとえば、自分の働いている会社が一番素晴らしい、社長の考えがすべて正しいと思っている会社員は、上に言われたことは何でも正しいと思って疑いません。そのような会社員はたとえ間違った指示でも訂正することなく従うので時間とお金の損失を招きます。やがて、会社に都合の悪いデータを隠したり改ざんしたりすることにもつながるでしょう。これでは会社をよりよくするアイデアなどまったく出るわけがありません。会社にとっても、取引先やお客さんにとっても損です。本人も成長することができず、一生会社の言いなりで出世することも給料が上がることもできないでしょう。それに会社が潰れてしまったら、共倒れになるしかありません。これは国の組織にも同じことが言えます。また、家族や恋人、友人関係においても同じです。親の言うことは何でも素晴らしいと思って自分で考えずに生きてしまったら、親が死んだときにその人は自分がどうやって生きていけばいいのかわからなくなってしまいます。親を超えることもできません。ひとつのことを妄信せず、様々な考えを取り入れることが大切です。 「我が仏尊し」状態だった私の学生時代 「我が仏尊し」という言葉をご存知でしょうか? 私はこの言葉を正直、今まで聞いたこともありませんでした。 自分の教養を高めるためにも、この言葉について調べてみました。 「我が仏尊し」とは、自分の良いと思っていることが他のどんなものよりも優れていると思い込む、ということの例えです。 優れているものを「仏」と例えているのですね。 ふとこの言葉を知って思い出したのは、過去の自分の性格のことでした。 私は自分で言うのも恥ずかしいのですが、中学生の頃は比較的頭が良い方だと思っていて、自分の考えることは正しいと思っていたのです。 まさに「我が仏尊し」といった状況だった訳ですね。 しかし、高校生になってアルバイトを始めたことをきっかけに、自分の知らない世界が沢山ある、ということに気付きました。 それと同時に、自分より優れた考えを思い付く人は沢山いると思い知らされたのです。 その頃の自分を思い返すと、なんて傲慢だったんだろうと恥ずかしくなります。 しかし、そうした経験があるからこそ、常に上を目指していこうとする姿勢が身に付いたのだと感じています。 「我が仏尊し」の考えでは、限られた範囲の思案しかできず、成長には限界がある、ということに気付かされた私の体験談でした。

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連木で腹を切る

【漢字】連木で腹を切る 【読み】れんぎではらをきる 【意味】連木で腹は切れないたとえから試しても達成できないたとえ。 【例文】3人も退場者を出して連木で腹を切るようなもんだ。 連木とは、すり鉢で物を擦る時に使う棒の事です。 ゴマを擦ったり、何かを擦りつぶしたりする時によく使います。 形は、握りやすいように少し太くて、先は丸くなっている少し長い棒です。 その連木を使って、刃物のように腹を切ることは、絶対できません。 刃物は、物を切れるように刃がついていて先が尖っていたり、厚さはなく薄い形状ですが、連木は、その逆の形状をしています。 つまり、「連木で腹を切る」という言葉の意味は、絶対にできないことをする、不可能な事という意味を指しています。 例文を挙げてみると、「世界一の大金持ちになって、一生遊んで暮らすなんて、まるで連木で腹を切るようなことを言っている」「太平洋を泳いで渡ってハワイまで行くなんて、無茶で連木で腹を切るような話だ」など、どう考えても、普通では不可能なことを言う人に対してこの言葉を使うことが多いです。 ほぼ不可能なことを言う人は、目標を掲げて言っているのでしょうが、どう考えても、実現できるような事ではない事を言うよりも、もっと現実的に、実現できるような、頑張ればできるような目標を掲げて言う方が、聞いた周りの人も応援したくなりますね。 あまり連木で腹を切るような事ばかり言っていると、信用もなくなってしまいます。 連木で腹を切るような考えは案外成功者向き 「連木で腹を切る」という言葉は難しそうに聞こえますが、意味を知れば簡単に使える言葉です。 「連木」とは、西日本の方言で「すりこぎ」を示します。 つまり、すりこぎで腹を切ろうとする、という、普通に考えたら不可能とも言えることをしようとすることの例えとして使われます。 類義語として、「豆腐の角で頭を割る」「切匙で腹を切る」という言葉も挙げられていますね。 しかし、どれを取っても、なんだか物騒な言葉に例えたんだな、という印象です。 最初にも言ったように、今は「不可能なことをしようとすること」という意味で使われている訳ですが、こうした考えをする人がいるからこそ、どんどん私達の生活が豊かになっているんだな、ということを改めて感じました。 普通に使っている電化製品一つを取っても、昔はそんな魔法のようなもの、と言われていましたよね。 そうした発明は、成功以前はきっと周囲には「連木で腹を切るようなもの」と言われたことでしょう。 しかし、変人と天才というのは紙一重であり、そうした考えの人は成功者になり得るものです。 人と同じ考えをしているのでは、大成功というのは難しいのかもしれませんね。 連木で腹を切るような突飛な発想を持つ人は、裏を返せば宝とも言えるでしょう。

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累卵の危うき

【漢字】累卵の危うき 【読み】るいらんのあやうき 【意味】積み上げた卵をたとえて深刻で不安定な危険状態であること。 【例文】激戦区で商売が累卵の危うきだ。 「累卵の危うき」とは読んで字のごとく、卵を積み上げたような不安定で危険な状態のことを言います。日常生活でも、まさに「累卵の危うき」といえるような光景がたくさん見られます。まず私たちの暮らすこの国自体が、まさにブラック企業で働く人々、違法な条件で働かされる海外から来た人々、お金も働く場所も子供を預ける場所もなく必死で子育てをする若い世代、世間から白い目で見られる障碍者や弱い立場の人々、さまざまな犠牲の上に成り立っているのです。人々は安い賃金で働き、そして食料品や生活用品、雑貨やサービスなどはどんどん安くなり、結果的には自分の首を絞めているのを知っていりながらも、安さを求めるしかないのです。この丸い卵を積み上げたような不安定な世の中で、もっとも損をしている人々は、自分が損をしていることも知らず、また知っていてもどうすることもできないのです。そのような人々は、今日明日の自分の生活で精いっぱいだからです。特に若い世代は、人口が少ないので選挙に行っても国のありかたを変えることができないと気づいています。そして、あと数年でこの世を去るような老人のために年金や保険料を払い、自分が歳をとったときや障碍者になったときに貰える保証もありません。いっそこんな不安定な卵の山は、早く崩れてしまったらいいと思うひとも多いと思われます。

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