tedukurikotoba (2563)

二枚目

【漢字】二枚目 【読み】にまいめ 【意味】いい男を指す褒め言葉。今では昔のイイ男を言うくらいしか聞かなくなった。 【例文1】父の昔の写真を見たら二枚目だった。 【例文2】祖父は若い時二枚目でモテたらしい。 【例文3】元祖二枚目スター。 二枚目とは今でいうイケメンのことですが、最近は二枚目という言葉をあまり聞かなくなったような気がします。 二枚目が登場するドラマでは、必ずと言っていいほど三枚目が登場します。 三枚目がいることで、二枚目がより引き立って見えます。 私が今見ているドラマでも、三枚目が登場しています。 もし、これが二枚目ばかりだったら、面白さは半減してしまうかもしれません。 三枚目の味があるからこそ、ドラマが面白くなるのだと思います。 三枚目はそれほどイケメンではないイメージがありますが、中には十分二枚目なのに三枚目の役をやっている人がいます。 これは両方良いとこ取りのような気がして、少しズルイような気がします。 三枚目はキャラクターの面で面白いのが、売りなので、さらに二枚目だったら欲張り過ぎの気もします。 見た目は三枚目なのに、中身が二枚目という人もいます。 こういう人はもしかしたら、第一印象で損をしてしまうかもしれません。 しかし、女性は男性の外見だけを見ているわけではなく、むしろ内面重視の人も多くいます。 そう考えると外見は二枚目でも三枚目でも、中身が二枚目ならば好感を持たれやすいのではないかと思います。 内面はいずれ外見にも表れてきます。 日頃から内面を磨いていきたいものです。 その昔お付き合いしていた彼氏の話です。 かなりかっこいいと言われていて、特におばさまのウケが良く、「あんたの彼氏は二枚目だね」とよく言われていました。 おばさま方は彼氏のことを嵐の松潤に似ている、山田孝之に似ている、などと言い、ただ濃い顔立ちなだけなのですが、とても彼氏のことを崇めていました。 そしてますます彼氏は調子に乗っていきます。 わたしに言わせると中東系の顔立ちで、誰に似ているかと言えば・・・あえて言うならばイラン人、ドバイの石油王に似ている感じで若い世代にはその二枚目っぷりが理解できないようで友人などからは「彼氏、日本人・・・?」と言われていました。 彼氏と言えばかなり繊細な人でわたしの周りで中東系、イラン人、石油王呼ばわりされていることは知らず、おばさま方の謎の高評価で完全に調子に乗っている状態。 そんな時、記念日で高級ホテルに食事に行った時のこと。 わたしが御手洗に行っている間にホテル内を徘徊していたら迷ってしまったようでキョロキョロしていたら、ホテルマンから話しかけられたそうで、それが英語でもなく、聞き取れない言語だったらしく・・・ きっと中東系の言葉で話しかけられたのだと思います。 彼氏はそれ以来二枚目キャラを卒業しました。

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泥を吐く

【漢字】泥を吐く 【読み】どろをはく 【意味】問い詰められて隠していた事を白状する。 【例文1】容疑者が証拠を突きつけられ泥を吐く。 【例文2】目撃証言から泥を吐く。 【例文3】取り調べで泥を吐く。 「泥を吐く」という言葉の意味するところは、もちろん実際に口から泥を吐き出すことではありません。 犯罪者が、司法や警察によって厳しい取調べの末に追い詰められて罪状を白状することです。 語源や由来は明らかではありませんが、泥がイメージするところはかなり悪い・汚い・忌むべき物のように思えます。 泥んこ、泥まみれ、泥がはねる、泥を塗る、雲泥の差など、どうにも汚いものの代表格のひとつです。 流れの緩い川や池・沼の底には大抵、泥が堆積していてそこに棲息している生物も当然存在します。 ドジョウ・ナマズ・タニシなど、最近では中々お目にかかれませんが、泥の中で元気に生きている生き物です。 シジミやアサリにしてもある程度の砂や泥がなければ棲息することは出来ないでしょう。 アサリを購入してみれば分りますが、貝殻の表面は泥がついているのが普通ですし、砂を吐かせる作業を怠れば食べられたものでは有りません。 泥に混じっている微生物をエサとしている生き物が時々泥を吐いている映像を見かけますが、犯罪者の泥を吐くとは全く違います。 思うに、これまでの悪事が泥の堆積のごとく犯罪者の腹につまっていると、取調べ官は考えていたのではないでしょうか。 悪人が悪事を日常的に積み重ねていそうなのは想像に難くありませんが、さすがに絶対に犯人だと決め付けてから取り調べるのはどうかと思ってしまいます。

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手を取る

【漢字】手を取る 【読み】てをとる 【意味】手助けする。親身になって世話をする。 【例文1】親の老後は私が手を取る。 【例文2】友人の悩みに手を取る。 【例文3】お年寄りの手を取る。 手を取るとは親身になって手助けをすることです。 どちらかというと私は世話好きで手を取る方です。 母の教えが人に優しくしてあげなさい、困っている人がいたら相談に乗ったり助けてやったりしなさい。そうするとあなたの人柄はみんなに認められて好かれるからと小さい頃から言われてきました。この前も大きな荷物を抱えて駅の階段を上がっていた高齢のおばあさんが休み休み階段を上がっていたので、私が荷物を手にとって上まで一緒に上がりました。何度もお礼を言われ私まで嬉しかったです。 実家に車で帰る途中も知らないおばあさんが行き先を聞いてきてまったく逆方向でしたし、田舎道のバスは1時間に1本です。待つ時間も30分以上あります。だから10分くらいの距離を車で送り届けました。おばあさんはバス代と言って1000円くれようとしましたが、それはバス代よりも高すぎるからいいですとお断りしました。 おばあちゃんを見ると亡くなった祖父母を思い出して困ってそうなお年寄りの方がやたら目につくのですよね。

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旅は道連れ世は情け

【漢字】旅は道連れ世は情け 【読み】たびはみちづれよはなさけ 【意味】旅をする時に同行者がいれば楽しく心強いものであり、同じように世の中でもお互いに助け合いが大事という意味。 【例文1】旅は道連れ世は情けだから困った時は遠慮なく言ってね。 【例文2】老後も旅は道連れ世は情けで助け合う。 【例文3】旅は道連れ世は情けに助けられた。 私は「旅は道連れ世は情け」という言葉を聞くと、江戸時代の旅を想像してしまいます。 昔から東海道五十三次の絵が好きで、そこに描かれている人物の様々な動きに注目してきました。 旅人の様子が細かく描かれていて、今の時代に見ても旅に出かけたくなってしまいます。 旅は一人でするよりも、誰かと一緒の方が心強いですし、また楽しみも増えます。 私は今まで何度も旅をしてきました。 中でも海外旅行はやはり誰かと一緒の方が心強いです。 誰かと一緒の旅はハプニングが起こっても、一人では頭が真っ白になってしまうような出来事でも何とか対処できます。 また、世の中は情けがあるからこそ、上手く回っていけるのだとも思います。 「渡る世間に鬼はなし」とも言いますが、まさにそうであってほしいですし、今後もそうであり続けることを願いたいものです。 物騒な世の中になってくると、信じられるものがなくなっていきそうで怖いです。 世の中が悪い方へ進んでしまうと、情けも少なくなってしまうような気がします。 いつでもどこへでも旅を楽しめるような世の中であってほしいと切に願わずにはいられません。 また海外旅行へ行きたい気持ちはありますが、未来が自然に「旅は道連れ世は情け」だと思えるようにならないと難しいような気がします。 「旅は道連れ世は情け」とは、江戸時代17世紀なかごろ浅井了意によって書かれた東海道名所記に語源をもつことわざです。 一般庶民にも分りやすいように書かれた仮名草子で、名所に立ち寄りながら旅をする様子が書かれていて東海道中膝栗毛にも影響を与えたようです。 「江戸いろはがるた」にも使われていて、こちらの方で広く認知されるようになったのかもしれません。 江戸時代の旅行事情は、情報量も少なく予期せぬ危険や問題が発生することも多分に考えられたため、道中を共にする仲間の存在は非常に重要なものがあったことでしょう。 世知辛い世の中を生きていくには人情を大切にして助け合い仲良くやっていこう、というのが後半分の「世は情け」の意味するところです。 実際、人間関係を軽んじたり無視していては碌な結果にならないので「世は情け」の部分は現代にも当てはまります。 対して、「旅は道連れ」の方はどうでしょうか。 現代社会においては余程山奥や秘境へ向かうのでなければ、わざわざ道連れを用意しなくとも良いように思えます。 気楽なひとり旅も日常から離れることが出来て楽しいものです。 問題があるとすれば、一人で旅行していると態々道連れになろうとする見知らぬ人に出くわすことでしょうか。 出会いなどという魅力的なイベントで済めばよいのですが、無用なアクシデントが発生する予感がしてなりません。

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終始一貫

【漢字】終始一貫 【読み】しゅうしいっかん 【意味】初めから終わりまで態度や行動を変えないで貫き通す。 【例文1】何度注意しても彼は終始一貫聞く耳を持たず。 【例文2】終始一貫否定する。 【例文3】終始一貫反対する。 最初から終わりまで変わる事無く同じである事を「終始一貫」と言い、「終始一貫、彼を信じ続ける」という具合に決して途中でブレる事なく最後まで貫く姿勢がそこにあります。ともすれば頑固者と言われかねませんが、そこにある一途さが何とも小気味よさを感じられ、どうしても共感せずにはいられません。それにはやはりそのモノに対する思い入れが強くなければ、そうはなりません。そこまで入れ込まれる事はとても光栄な話であり、冥利に尽きるというものです。利害で動く人ならその時の動勢であっさり態度を変える変わり身の早さを発揮するでしょうが、信じた物に最後まで付き従うと決められる人に迷いはなく、結果より貫く事が重要と信じ抜けるのです。それはどんな誘惑や動揺などの揺さぶりを掛けられようと、心変わりをしない芯の強さの持ち主なのですから。一旦こうと決めればやり遂げられる強さの源にあるのは、一本筋の通った心根があるからだと思われます。俗に言う「二心無き思い」がそうさせるのです。誰の誘いにも動じず初心を忠実に守れる人は、いざという時本当に頼りになり、窮地に於いて心から感謝できる存在でいてくれるのです。時にはその姿勢が煩わしく感じる事もあるやもしれませんが、味方にすればこれ程心強い者は早々見付かるものではありません。であるなら、人選はよくよく吟味して行った方が後になって後悔せずに済むという事です。 私の人生は付和雷同と言う言葉がしっくりとするほど、人の意見に直ぐに賛同して、その場を上手く取りつくろっています。 そんな私の人生と真逆の生き方をしている人がいます。 生まれてから亡くなるまで一切考え方を変えない、終始一貫タイプの人です。 この終始一貫タイプの人は、人の意見に直ぐに賛同するような事はしません。 自分の主義主張にそぐわない場合は、人の意見に一切賛同しません。 ですからこの終始一貫タイプの人は、人と衝突することが多いタイプであると言えます。 私なんか直ぐに人の意見に賛同しますから、ほとんど人と衝突した事がありません。 社会で楽に生きて行くには、私の様な付和雷同タイプの方が適しています。 ですが人生をかっこよく生きるためには、終始一貫タイプでなくてはダメです。 人の意見にいちいち賛同していたのでは、自分の存在感を示す事が出来ませんから、とてもかっこの悪い生き方であると言えます。 ですから私は付和雷同の生き方をしていながら、終始一貫タイプの生き方をしている人に憧れを持っているのです。 自分の主義主張を貫き通す為には、過酷な試練を潜り抜けて行かなくてはならず、並大抵の人に出来る事ではありません。

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