tedukurikotoba (2563)

十年一日

【漢字】十年一日 【読み】じゅうねんいちじつ 【意味】長い間、変化もなく成長もしない。どちらかと言えば悪い方で使われる。 【例文1】十年一日の節約生活を送っている。 【例文2】恋人も出来ず十年一日だ。 【例文3】転職の繰り返しで十年一日だ。 「十年一日」という言葉は、多くの場合「十年一日のごとし」という使い方をしますが、その意味は「まるで十年間が一日のように感じられるほど、変化がない」ということになるでしょう。 十年前の状態が昨日のことに思えるように変わっていないというイメージですが、あまりよくない意味に使われることが多いようです。 しかし、私は以前、「十年一日のようになれたらいいな」と思っていたことがあります。 私は脱サラをして、小売業を始めたのですが、最初のうちは大苦戦。思うように店の売り上げが伸びません。 そのころ、店の近くにある飲食店の店長と話をする機会がありました。その店は店長が初めて30年を超えるキャリアを持っていました。同じ自営業者として、うらやましく感じていましたが、店長は「いやあ、十年一日のごとしで、店も私も一向に成長しません」と言うのです。 もちろん、謙遜してそうおっしゃったのでしょうが、その時、「自分もなんとか店の経営を軌道に乗せて、『十年一日のごとし』と言えるようになりたいなあ」と思いました。 その後、かなり時間はかかりましたが、なんとか店を続けることができています。うちの店ももうすぐ30周年。憧れだった「十年一日のごとし」の状態になることができたのです。 「長年まったく変化がない」というのも、場合によっては、悪いことではないのではないでしょうか。

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言葉を濁す

【漢字】言葉を濁す 【読み】ことばをにごす 【意味】はっきりと答えず曖昧な言い方をする。 【例文1】答えづらい質問に言葉を濁す。 【例文2】週末の予定を聞かれ言葉を濁す。 【例文3】恋人はいるか?と聞かれ言葉を濁す。 「言葉を濁す」とははっきり言わず、あいまいに言うことです。口を濁すとも言いますが本来の言い方は言葉を濁すになります。 そもそも「濁す」とは、水が汚れていたり不純物などが混じり透き通っていないことを指します。つまり言葉自体に何か混じってしまうと言葉が濁ってしまい本来の意味が伝わりにくくなるのです。 「言葉を濁す」と似ている言葉として「お茶を濁す」との違いですが、お茶を濁すはいい加減なことや適当なことを言ったりすることでその場を一時しのぎに逃れることを言います。意味合いは似ているようですが、お茶を濁すは相手に嘘をつくことになりますので少し意味が違ってきます。どちらにせよ、人に嘘をついたり物事をあいまいにすることには違いありませんので言葉を濁すと人との信頼を失うことにもなりかねません。 私の職場でも上司から質問されている部下が怒られたくがない為に質問の答えに対して一番肝心な所を言葉を濁していました。そのせいかその部下は上司からの信頼があまりなく肝心な事は頼まれないようになっていました。私も確実さが無いことに関して質問されると言葉を濁してしまうことがありました。しかし、信用がなくなると思うと何事もあいまいにしないことは大切なので自分のためにも言葉を濁すことはしないようにしましょう。 小学校四年生の頃の苦い思い出の話です。 入学した頃はみんな同じようなプラスティック製のぱかぱか蓋が開く、蓋の接着部分が磁石の筆箱を使っていました。 四年生ぐらいになると、ぱかぱか筆箱を使う子はだいぶ減り、筆箱にも様々な個性が出始めます。 文房具も然り、匂いつきの消しゴム、かわいい定規、ロケット鉛筆、鉛筆からシャーペンへ・・・ 四年生ってそういう時期だと思います。 わたしが小学校四年生の頃はカンペンケースが流行っていました。 わたしもいよいよ、ぱかぱか筆箱から脱皮し、カンペンケースを買ってもらえることになりました。 地元の小学生がみんな通う可愛いファンシーショップに意気揚々と買いに出掛け、そのお店で自分的には一番のカンペンケースを購入しました。 2段式で、蓋にはアイスクリームのイラストが書いてありました。一目惚れでした。 翌日みんながわたしのカンペンケースを褒めてくれてとても得意げになっていました。 3時間目の体育が終わり着替えを終え、4時間目の準備をしていた時、カンペンケースがなくなっていることに気が付きました。 泣きそうになりながら探していると友人のかばんからはみ出しているわたしのカンペンケースが・・・ 友人に聞いてみました。カンペンケースを知らないかと。言葉を濁した友人・・・ 初めて人間の本質を見た日でした。 曖昧な表現にすることを「言葉を濁す」と言いますが、物事についてはっきり言わない時点で誤魔化そうとする魂胆が見え見えです。 当然そのような人間は、世間一般に信用されるはずがありません。 嘘をつかないだけまだマシと考える人もいるかもしれませんが、適当に誤魔化す算段をしている辺りが相手を見下している証左です。 言葉だけでなく心まで濁った人間に時間を割いていては、こちらの気分までグダグダに腐りかねません。 時間をかけることが無駄と判明したならばすっぱり引導をわたすべきです。 下手に考える時間を与えれば、さらに手を変え品を変え騙す・泣き落とす・恫喝するなどの手段に及びかねません。 1人で断るのが難しいなら誰でもよいから応援を呼んでしまいましょう。 相手に誠意がないなら、正々堂々一対一で対応する必要など全くないのです。 都合が悪いことを誤魔化したり嘘をついたりしてその場だけを取り繕うような人間に将来性など期待する方が変というものです。 逆に自分にとって都合の悪いことについて隠したり誤魔化そうとするこもは避けるべきです。 大抵の場合、嘘をつく人間はうまく誤魔化しているつもりであっても、受ける側が態々嘘を指摘しないだけなのです。 言葉を濁してその場を取り繕い長く疑われるくらいなら、さっさと詫びた方が身のためというものでしょう。

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気は心

【漢字】気は心 【読み】きはこころ 【意味】少しばかりの真心。 【例文1】気は心をお隣さんにおすそ分けをしよう。 【例文2】気は心のお土産を渡す。 【例文3】気は心ばかりのお礼をする。 誰かから贈り物をもらった時に、その値段がいくらだったかを調べる人がいます。 贈りものの値段と気持ちの大きさは必ずしも一定ではないと思っています。 気は心で、贈る気持ちが大切なのだと思います。 そのため、贈られた金額や大きさ、量などとは関係ないと思います。 贈られたものの値段をチェックして、それでその人の人格などを判断するのは、とても卑しい人のような気がしてしまいます。 贈りものは高くて多ければ良いというものでもないと思います。 贈られたら逆に何かお返しをしなければなりません。 そのやり取りが面倒で、最近ではそういった贈り合うことを控えている人もいます。 私は人に何かを贈る時、相手の負担にならない程度のものにしています。 高価なものでは逆に気を使わせてしまいます。 そうでなければお返しを期待することもないですし、貰う方もお返ししなければという気持ちにはなりにくいと思います。 気持ちや心は見えないものなので、時には値段や物の価値、または大きさや量などでその人を判断してしまいがちです。 しかし、それが相手の大きな負担になってしまうこともあります。 何かを贈る時は必要以上に高価なものを贈って、かえって相手に気を使わせてしまうことがないようにしたいものです。 中学生ぐらいの時に、母親が「気は心」という言葉を使ったのを聞いて、「なんだ、それ?」と思いました。 「気も心も同じことじゃないの? わざわざ『気=心』と言う意味が解らない。そんなこと言うまでもないことなんだから」と思ったからです。 母に「どういう意味?」と聞きましたが、私が納得できる答えが返ってこなかったことを覚えています。 その後も、母は何かにつけて「気は心」という言葉を使いましたが、私には理解不能。その言葉の意味は、調べてみてわかっています。「ほんの少量や少額ではあるけれど、そこにその人の真心を表れている」というのが、おおよその意味と考えていいでしょう。 たとえば、餞別を人に渡すとき、「ほんのわずかでお恥ずかしい。まあ、気は心というから受け取ってください」というように使われるわけですね。 でも、どうしてそれが「気は心」なのか、これはかなりの難問です。 私なりに考えたのは、「気」というのは、「そのわずかなものを人に贈るという気持ち、意志」であり、「心」は、「そうした行為に表れたその人の誠意や思いやり」である、という解釈です。 つまり、「気」は行動する意志であり、「心」はその行動の原動力になった心情というのが、私の解釈なのです。 「気は心」、大変にシンプルなのにも関わらず、正確に意味を解読するのはきわめて難しい言葉なのではないでしょうか。 芸術の秋になりました。以前に公共ホールを管理している部署にいた関係で、音響や照明を少しかじったことがある私は、よくアマチュアのグループからイベントの音響などを頼まれることがあります。多くはそのホールを私が勤務していた当時に利用していた方々で、その当時からの付き合いですので、ほとんどボランティアのような形で仕事を引き受けるのですが、中にはイベント終了後に、お酒であったりビールであったり、謝礼として現金であったりをいただける場合もあります。基本的になじみの方々なので、そのような報酬を当てにして手伝っているわけではないので、何もない場合も多々ありますが、わずかばかりでもそういった心遣いをいただけると、また手伝おうかという気持になります。こちらとしては多少趣味と実益を兼ねているような部分もあり、あまり音響や照明に携わらないでいると、忘れてしまうような面もあるので時々はやっておこうくらいの気持ちでやっていますので、ボランティアでも全然大丈夫なのですが、やはりそういったものがあるとうれしいものです。気は心とも言いますし、謝礼などの量ではなく依頼する側に感謝の気持ちがあるのだという事は、頼まれる側としても意気に感じるものなのではないでしょうか。そういったケースに直面するたびに私自身も逆の立場になったらそうできる人になりたいといつも感じてしまいます。

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合従連衡

【漢字】合従連衡 【読み】がっしょうれんこう 【意味】利害の状況に合わせて組織と結びついたり離れたりする。 【例文1】A社は業績が落ちたのでB社と契約して合従連衡する。 【例文2】子会社と合従連衡する。 【例文3】下請け業者と合従連衡する。 知り合いとテレビのニュースを見ていて、もうすぐ解散総選挙のニュースをしていたときに、 「どこ入れよう?民進党かな?」 「あそこの合従連衡は利害が酷すぎてよー投票できひん」 と言っていました。 「へ、がっしょ、なにそれ?」 「合従連衡(がっしようれんこう)、自分の利害のために他の党と組んだりはなれたりすることやで」 知り合い曰く、昔の中国で国同士がそれぞれの利害のために組みあったり、別れさせたりすることが語源と言われています。 民進党は自分の利害のために共産党と組みあったり、維新の会と組み離れてるのがそういう事、といっていました。 で、合従連衡の意味をよく調べなおすと、むしろ自民党の方が合従連衡をしているようと思いました。 公明党と組んで、野党を分断させて一部(維新の党とか民進党の離党議員とか)の議員を引き入れて民進党はじめ野党を分断させる。元々、自民党はマスコミや企業の手をかりて野党を分断させるのが得意なので、あーまさに・・とか思いました。 で、もうすぐ解散総選挙なのですが、さすがに悩みます。私は比較的アンチ自民党なのですが、民進党の議員の自分の利害のための節操のなさを見るととても入れようとは思えないし、かといって「このハゲー(今は離党したけど」を擁立する党も・・悩んでいます。 合従連衡は元は中国の戦国時代からある言葉ですが、日本においても使われることがあります。社会において規模が大きくなった組織は、効率化を図るために合従連衡が行われます。合従連衡は合併や解散または結びつきや離れることを意味します。景気がいいときは次々と子会社がたくさん出てきますけど、景気が悪くなると似たような会社同士が合併していきお互いを助け合っていきます。歴史は繰り返すといいますけど、長いスパンで見ればくっついたり離れたりしています。政治の世界でも解散総選挙などを行うとき合従連衡が起こるがあります。解散総選挙になる前に離党し選挙に備えて合従連衡をしてくる議員もいて戦略的に使われます。合従連衡した直後は世間から冷たい視線を浴びて批判が相次ぐこともありますが、時間が経ち成功していけばあとから良かったと思えることもたくさんあります。身近な例で合従連衡を見るとするならばコンビニではないでしょうか。これまではたくさんのコンビニ会社がありましたが、飽和化してきて行き届いてくると、よりよいサービスを顧客が求めてきます。力の弱いコンビニは売り上げが下がってくるので吸収合併していきます。セブン、ファミマ、ローソン、ミニストップなど大手のコンビニが残りましたが、今後吸収合併が進めば地方のコンビニも合従連衡が行われていくのではないかと思われます。 その時々の状況によって、周りの人達と手を組んだり辞めたりする事を「合従連衡」と言います。イメージで言えばとても世渡りの上手い存在ではないかと想像に難くはありません。情勢を巧みに読んで、自分の足りない所を補ってくれる味方を場合によって増やして行くし、不要となれば早めに手切れを敢行する。この言葉の由来になった時代が、戦乱の中国です。戦況を見極められなければ隣国に攻め滅ぼされる事態となりますので、特に小国ともなれば周りに注意深く目を光らせる必要があります。それだけの変わり身の早さを見せれば、傍目には節操のない様に映るかも知れません。しかし、実力がある者ならともかくそれが劣るものであれば、そういう手段に頼るのも致し方ないかもしれません。まずは自身が如何に生き残るかが重要であり、そこに至る方法に拘る余裕の無い者に勝ちの美学を求めるのは酷というものです。形振り構わず生き残る事を優先できる人は、いざという時思い切った決断が出来ると思われます。一見薄情に見える判断も、全体の事を考えればそうせざるを得ない場合が往々にして起こり得るのです。もしかしたら仲間からさえ批判が紛糾するかもしれませんが、その事に臆することなく決断できる人こそ、真の指導者になれると思います。時代は生ものであり、常に鮮度が変わってしまいます。だからこそ上手に状況判断する風を読む目が求められるのです。

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恩を売る

【漢字】恩を売る 【読み】おんをうる 【意味】見返りや利益を期待して人を助ける。 【例文1】落し物を届けて恩を売る。 【例文2】あざとく恩を売る。 【例文3】見返りを期待して恩を売る。 人助けをするときは、恩を売る人と無償で行う人とに分かれます。ボランティア活動などは見返りを求めないで人助けをしていくので、恩を売るのとはちょっと違います。恩を売るのはこれをしてあげたから何々をよこせという状態です。ビジネスならしてあげたことに対して対価を要求するので恩を売るのは当たり前です。 しかし相手が恩を売られるのを知らないで、何かをしてあげたあと恩を売ってしまうとトラブルの原因となってしまいます。親しい友達同士で恩を売ると仲間割れしたり最悪喧嘩になることもあります。恩を売るときは相手方に事前に見返りを求めることを伝えておくことが大切です。忘れた頃に恩を売る人もいます。何年も前にしてもらったことなど普通は忘れてしまいます。でも恩を売るような人はいつまでも覚えているものです。人間というのはしてもらったことは簡単に忘れ、してあげたことは恩を売るまで覚えているものです。何年も前にしてあげたことで恩を売られると頭にきてしまいますが、してもらったときにお礼だけでいいのか、恩を売られないように何かお返しをした方がいいのか、相手によってよく考えておいた方がいいかもしれません。恩を売らなくても、回りまわっていい結果は付いてくるので無償の思いやりで接してあげることが大切だと思います。

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